初期のビデオアートに自分なりの決着を付けてしばらくが経ったが、最近の関心は60年代の記録映画と劇映画にまつわる言説に移りつつある。松田政男の批評を参照すれば、松本俊夫が作家主体として形式を思考しながら作品に向かい(もちろん作品内では現実も止揚される)、大島渚が作品を通して状況に関わり、足立正生は「作家即運動家」として行動すると解釈される。
現実と芸術の関係は、この政治の季節に非常に興味深い形で表面化していた。いわゆる芸術のための芸術という姿勢は社会主義リアリズムからすれば反革命的である。今の私から見てもその芸術のための芸術という姿勢には基本的には賛成ながら、多少の歯がゆさを覚える。形式のみを思考することは、疎外された個の再編成という芸術の本質にとって、極めて貧弱な態度である。そこで形式に現実を止揚し、作品に取り込むことでこれを乗り越えることこそ正解なのであろう。しかし、それでも「作家即運動家」という直接的態度には正直言ってある種の羨望を覚える。
芸術がまったく現実に背を向けたとき、それは工芸や消費文化の一部に落ち込む。当然それは避ける必要があるが、果たして現実は芸術の中でどのように結び付けられるべきなのであろうか。形式の中での止揚も、代替的な状況の描き出しも、ある種の弱さを抱えている。「作家即運動家」はそれを突破するかもしれないが、かつての社会主義リアリズムに通じる危うさは常に付きまとう(今思えば、中谷芙二子らのビデオによる社会的アプローチは、単純ではあったが「作家即運動家」的なものであると思える)。
北小路隆志の指摘によれば、60年代日本の政治の季節の終焉によって松本俊夫は形式主義(実験映画)へ向かい、大島渚は状況を主題としてそこに切り込むことから遠ざかり、足立正生は一兵士として戦場へ向かった(そしてドキュメンタリストたちは、その後の冷めてゆく政治状況のなかで政治の問題を主題とすることの困難を背負い込む)。現実と芸術の問題(あるいは現実と映像の問題)は保留されたままである。(こうなると、足立正生の今後の展開が非常に気になる。)