最近ロイツマMADが頭のなかで繰り返されて離れない。その多くは商業アニメが素材で、このところネットで多く見かけるようになった。商業アニメの断片が数秒単位で繰り返されるという、ある種の中毒性を帯びたMADムービーである。何故ロイツマか?、その発生については以下を参照のこと。
ロイツマ・ガール(Wikipedia)
振り返ってみればアニメや漫画といったサブカルチャーは、ひとつの作品として自律し観る者に受容されるべき存在であるとは言い切れず、視覚のツボをひたすら刺激するガジェットであると言った方が適当な一面がある。もちろん作品によって程度の違いはあるのだが、これらサブカルチャーはパブロフの犬のような、反射的な受容を引き起こす文化形態である。ストーリーを見るとき、我々は本当にストーリーを見ているのか。職人芸的作画や作家主義的演出を見るとき、我々は本当に作画や演出を見ているのか。
商業アニメの造形的な面における幼稚さ、そして芝居がかった稚拙な演出様式には大して思い入れもないが、商業アニメもアートアニメーションも含めて、あらゆるアニメーションは実写映像よりも圧倒的に情報量が多いと思う。(実写映像ほど平坦で退屈なものはない。それは見慣れた日常の延長である。)その情報量の多さ故にアニメーション=動画は極めて単純な絵や動きであっても、そこに観る者を引き込む求心力を持つ。(加えて無機的な事物に“本質的なるもの”が付与されるという錯誤、それも錯誤を前提としてのメタ的な錯誤感覚との戯れにも、その求心力の要因が求められるだろう。)その極北がこのハードミニマルな刺激装置としてのロイツマMADなのかもしれない。

JONAS ODELL - Revolver
( - , 7min53sec, 1993)
さて、ロイツマMADといえば思い出される作品がある。それはスウェーデンのジョナス・オデル(PVも制作している)らによる傑作「リボルバー」である。奇怪かつ意味深な数秒単位のアニメーションがループし、しばらくして次のループアニメーションが始まり、そしてしばらくしてまた次の…といった具合の構成で、観る者は進行も退行もせず微細な差異のなかで表層と戯れる。その具体的イメージは引き上げ網にかかる赤子、路上に転がる心臓に群がる虫、溺れ続ける人、数歩ごとによろめく棺桶を担いだ男などなど。サウンドトラックもアンビエントなループを繰り返すのみ。一応、微細な差異の反復が積み重なって終盤で飽和寸前まで行くが、結局最後は冒頭に戻る(ただし全く同じではない)。単純にシュールという言葉では回収できない、そんな忘れられない作品であった。
何故自分のなかでこの「リボルバー」が反復し続けていたのか、その疑問がロイツマMADを観ることで解けたと思える。両作品は同じ反復的刺激機能を持っている。そしてその反復的刺激機能とは、アニメーションの持つ“豊富な情報が微細にズレながら刺激(=変化)を持続する”という基本項目の拡大でもある。言うなれば、アニメーションとは快楽的な皮膜的刺激装置なのだ。もちろんこれは「アニメは暴走したポストモダンである」と言うような、嗜好優先の文脈異化的な意味で言うのではない。ここで言う“皮膜的刺激装置である”とは、もっと生理的なズレのレベルでの話である。