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三島由紀夫, 東大全共闘 - 美と共同体と東大闘争

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(角川文庫/Book)
思いのほかユーモアの感じられる雰囲気のなかで討論は具体的議論というより、歴史・時間と関係性についての観念的議論へ向かう。三島にとっての時間の捉え方は、基本的に連続的で歴史を尊重するものである。ただし彼は歴史の集積の極点として、今ここにおいて個人が行動を起こすことを強く勧める。そこで未来は「あとに続くもの者あるを信ず」との言葉に集約される存在となる(未来には何も賭けられないのだ、しかしここに潜む矛盾は全共闘Aのあとがきにおいて指摘される)。これは事物の背後にいかなる「本質」も「目的論」も認めずに、時間の非連続(可能性そのものの空間)のなかで、実在的諸関係に対して拒否姿勢をとる全共闘とも相通じる部分があったのかもしれない(「関係立ったところからそれを逆転するのが革命」という、全共闘Cの言葉に集約されるように)。
しかしやはり全共闘からしてみれば、三島の時間(=日本文化)へ対する膠着、あるいは観念に名前がなきゃ観念じゃないという発言からも分かるように、自分たちと三島の間にある距離は大きかった。さらに三島は価値存在として、「政治的な意味での天皇」ではなく「文化概念としての天皇」を提言する。全共闘Aはこの三島の考えについて、日本人であるという限定を彼が自己に下し、歴史という過去の規定性と、超越志向の二重性を彼が進んで引き受けようとしているのではないかと疑問を述べる。そして、それは文学の思想の問題であるとも述べる。
そうして両者の対決は、ただ現在へ、ただ一瞬へ投擲する者であるというスタンスから歩み寄りの可能性を持ちえながらも、一方はあらゆる関係性を変換し続けようとし、一方は過去との関係性を尊重しようとするがゆえに、結局は平行線のまま終わることとなる。
個人的には全共闘が何を考えていたのかが、三島由紀夫という強烈な鏡に反射されることによって明らかになったように思え、非常に勉強になった。また、殺伐とした言い争いではなく、豊かに湧き出る源泉のような言葉のやりとりと、どことなくユーモラスな雰囲気にとても好感を持った。

それにしても思うことがある。この時代は芸術と政治の距離が近かった時代であるが、果たして現代はどうなのであろうか。私は現代美術と実験映画への関心からこの時代に興味を持つに至ったが、この時代に生きた多くの作家には、芸術と政治を包括的に思考していく気概が有ったように思う。安直な社会主義リアリズム、あるいは反体制運動一辺倒に陥るわけでもなく、仙人のように社会から遊離して芸術に没頭するのでもなく、多くの芸術家が思考しながら揺れ動いていたように思う。
これに対して現在の芸術、特に現代美術と実験映画(あるいは実験映像やメディアアート)の情況は、ポストモダンの上滑り的解釈から自覚なく表層的引用を行い、挙句の果てにその引用したものをメインコンテンツとして据えることで前近代的、あるいは象徴主義的、あるいは取るに足らないプライベートな生の吐露へと転落してしまっているように思える。

「関係立ったところからそれを逆転するのがモダニズム以降のあり方じゃねえのか、バカヤロー」と全共闘Cに倣って叫びたくもなる情況だ。

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2007年09月16日 18:18に投稿されたエントリーのページです。

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