あるレーベルのブログを読んでいて思ったこと。
俯瞰的な視座からの批評とは、確かに有効性をもっている。ここは認めなければならない。それは外部に開かれた言葉としての有効性だ。それは関係性の束を解き、対象の再構築を引き起す契機となる。
しかし、その視座の立脚点=ポジションがどこにあるのか明確でない言葉、あるいは立脚点=ポジションが一方的に外部に存在しているような言葉とは一体何なのであろうか。引用と参照と横滑りにより関係性の束を解いた後に、それはどこへ対象を向かわせるのか。
ポストモダン以降の言説の地に足の着かない居心地の悪さとは、このようにどこにも立脚点=ポジションを持たない者、あるいはAでないところに視座=ポジションを据えた者が、Aについて批評し、それのみが罷り通ってしまうところにある(特にこれは現代美術ジャーナリズムにおいて顕著だ)。
AとBを比較した時、その比較の判定者はどちらのルールにより判断を行うのか。AのルールとBのルールでは見え方も判断結果も異なってくる。この価値判断はどちらが正しいと言うようなものではない。双方が双方の越境的な判断結果を参照し、自己の判断結果に反映を加えればいいのだ。このような微細なレベルでの反映の連鎖により文化全体が変化してゆく(だろう)。
私の思い描くあるべき姿とは、まずAをAの領域に返すこと。そのうえで内側から外側に向けて(=AからBに向けて)の批評と、外側から内側に向けて(=BからAに向けて)の批評を行うこと。そして両者がそれを参照しながら、自らを組み替えること。道はそれしかないと思う。根無し草のような批評の迷走に、あるいは現場から遊離した批評に落ち込まないために。