ある映画研究書を読んでいて思ったのだが、作家や作品と直接関係のない事実(政治、社会学…)を持ち出して、関連を想像のなかで語ること、あるいは演出文法を分類し説明を付けること、これらは果たして研究なのか。エッセイや評論としてならそれでもいいかもしれないが。私の読んだある本は、私が映画学について抱えていた違和感を、強く感じさせるものだった。
アカデミックな映画研究者は、映画を研究していると言うが、結局それは劇映画のフィールドにて、ストーリやテーマのテクスト解釈、あるいは統計的分析(統計による理論ほど信用できないものはない。要因と結果の因果関係を、文化の領域で語ることが本当に可能なのか)によりかかって、恣意的な見解を述べているだけなのではないのかと思える。
非アカデミックな批評や評論が主観を優先させて論じることを、裏付けによる実証作業よりも優先させていることは認める。それは時として非論理的なものに陥る。ゆえに私は性急に理論を進めがちな映画批評家や映画評論家とはまた違った、信頼できる客観的言説を述べる者としての映画研究者に、今まで価値を認めていた。しかし、映画批評、映画評論、映画研究に理論の質としての優劣はないのではないかと思えてきた。むしろ映画研究の名の下に行われていることこそ、演劇と文学の延長線上に留まりがちであり、文学的なテクスト解釈に流されやすいという問題点を孕んでいるのではないかとも思う。しかし、素晴らしい映画研究者が存在することもまた確かなので、それぞれの言説において読むに値するものと、読むに値せぬものが存在するだけなのかもしれない。
それにしてもアカデミックな映画研究の領域では、実験映画/ビデオアートといった映像に対しての研究がほとんど行われていない(少なくとも国内においては)。この点については何とかならないのだろうか。