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個人的メモ

「芸術とは何か」などという定義を設定することは、対象があまりに広く抽象的すぎて無意味だ。しかし芸術作品に対する評価軸であれば二つ設定することが出来る。社会性という横軸と、「カテゴリー: 芸術」の歴史という縦軸だ。

前者はポストモダン以降の芸術において顕著な評価軸である。作品を社会を構成する何ものかと関係付けて、その社会的関係性込みで作品を成立させるものだ。「カテゴリー: 芸術」を社会に向けて開示する。そこでは芸術における方法・形式の新しさは問われない。芸術はカテゴリーの歴史(=いわゆる「大きな物語」)から解放され、表現それ自体は、目的に対して採用される手段となる。そして芸術は政治を積極的に取り込んでゆく、政治的に己を自覚してゆくことになる(マルチチュードの思想、あるいは「小さな物語」)。

後者はモダニズム芸術において顕著な評価軸である。作品を「カテゴリー: 芸術」の歴史的連続性において位置付け、芸術における方法・形式の新しさ、有効性、意義から作品を判断するものだ。形式主義と言ってもよい。さらに言うと、この評価軸は二つの種類に分けられる。
・まずは形式を主体による外界の認識、その制度化としてとらえ、その純粋化を突き詰めようとするタイプ。これは観念的なスタンスであり、コンセプチュアルアートへと至る、技術の衰弱化と観念の肥大化の過程を辿る。行くところまで行ったので、70年代から殆ど手詰まりの状態にある。このタイプがテクノロジーを用いると、残念なことになりかねない。また同じ観念を有し、それに心酔するものにしか理解されない。
・もうひとつが形式を技術の進歩としてとらえ、今であればテクノロジーの発展を取り込みながら技術的革新を模索するタイプ。メディアアートによく見られるこのスタンスは、その思想的稚拙さ、素朴さゆえに、観念主義者からは往々にして批判される。有無を言わせぬ技術的革新の衝撃は無視できない(老若男女誰に対しても衝撃を与えることが出来る)。しかし企業の技術研究と芸術を何において区別することができるのか、という違和感も残る。テクノロジーの発展と不可分なので、ある種の社会性も持つ。

あまりに大雑把であるが、個人的にはこの見取り図のなかで全ての作品を位置づけようとしている。もちろん、この二つ(もしくは三つ)のうちのどれかという単純な割り切りなど出来ないので、両軸のあいだに位置づけられるのだが。チラシの裏的個人的メモで失礼。

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2008年04月12日 18:27に投稿されたエントリーのページです。

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