« 牧野貴 - Diaries | メイン | Extreme The Dojo Vol.20 Special @ 名古屋 クラブクアトロ »

現代思想2008年5月号 - 「特集=アントニオ・ネグリ」

以下、ちくさ正文館にて購入。
現代思想2008年5月号 - 「特集=アントニオ・ネグリ」

さっそくネグリのテキストを読んでみたが、若干の違和感を覚えた。制作活動を「労働」として捉えることが、何かひっかかる(芸術史的価値観、視覚文化の発展とどう関わるのかが見えない)。しかし「生産様式とその発展」という唯物論的な左翼言説を芸術に導入して、社会を構成するひとつの個の生の余剰として芸術と捉えるところは、典型的なマルクス主義から展開しながらも、ありきたりな社会主義リアリズムを克服しており良いと思う。ひっかかりつつも、やはり可能性を感じる。加えて、こちら側の狭い芸術のカテゴリーでの話になるが、転倒した類いのポストモダンや、その日本的/小児的開き直りである今のゼロ年代の芸術の言説を軽々と廃棄し得るものであるところも小気味よい。
他のテキストについて。
平井玄のテキストは“ネグリは「芸術」が苦手である”と断じる。これは常々思っていたことをはっきり言い切った。そこだけははっきりさせておかないと、見当違いの議論が引き起こされかねない。芸術を生産や労働として捉えるアイデアが(ひっかかりつつも)重要であるが故にそう思う。
毛利嘉孝のテキストについては芸術を「労働」と置き換えることを、今日の芸術家は労働者、フリーターであり、それらはマルチチュードの存在形式であると押し進めて定義する。それにしては90年代以降の芸術の社会化についての実例が乏しすぎ、説得力を持たない。
杉村昌昭のテキストについては<共>的世界の構築は押し進められるべきだと私も思った。だがそれを民族の同一性のレベルにまで拡大するのは性急ではないだろうか(確かに理論の整合性はあるのだが)。「世界市民」という言葉を見るのも久し振りだが、ひとつのカテゴリーの同一性あるいは固有の価値観は最小限のレベルにおいて認められるべきだと思える。どこまで<共>的世界を押し進めるのか、どこまでひとつのカテゴリーの枠組みを維持するのか、バランスが大切だ。
水島一憲のテキストについてはコモンのあり方のひとつとしての「保証所得」の考え方に強くうなずかされた。私もやや形態は異なるが、事実上、失業のリスクを負ったプレカリアートである、と言っておこう。
浅野俊哉のテキストは最も重要である。ネグリの理論を客観的に精査し、現実的着地点としての革命の在処を明示しないことを批判する。ネグリの言説が前提としながらも無視している国家的なるものの機能に、スピノザを介して触れるあたりは、建設的批判として考えなければならない。

About

2008年05月08日 22:10に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「牧野貴 - Diaries」です。

次の投稿は「Extreme The Dojo Vol.20 Special @ 名古屋 クラブクアトロ」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.34