今更ながら、アクチュアリティのある文化的研究と、技術的研究が組み合わされてこそ、今日的に意味のある制作活動というものが可能になると思えてきた。(ここではもとより内面表現、感情表現としての芸術は採用しない。)
ここでの文化的研究とは何を指すのか。それは「形式」の展開、社会との関連性(広義の政治性)等を複合的視野において、価値判断、取捨選択を行う作業を指す。批評や評論といわれる類いの作業である。
一方、技術的研究とは何を指すのか。それは技術やテクノロジーの芸術への採用、その追求を指す(ここでいう技術は「形式」とは微妙に意味が異なる)。
文化的研究の度合いの高い制作とは、観念的で、コンセプチュアルで、思想的には豊かなのだが、技術的には貧弱なものとなる。
技術的研究の度合いの高い制作とは、技術的な実験であり、好奇心を刺激する可能性を持つのだが、思想的には稚拙な、メーカーの技術開発と近しいものとなる。
さて、ここで今の自分がどこにいるのかを考えてみると、実はまずい状態であることに気が付く。私はそもそもの傾向として文化的研究の割合が極端に高かったのだが、ここ数年でその文化的研究が、さらに前提となる領域、すなわち歴史研究へと向かっている。今や私にとっては戦前/戦中/戦後の映像芸術を政治と絡めて調べることが、このうえない楽しみとなっている。これは言ってみれば考古学的な性格をもつものだ。
しかし考古学的な研究とは、アクチュアリティのある現代的な実践そのものとは切断されている。
もちろん歴史を解釈することとは、現代をその観測点において逆照射することだ。しかし、それがアクチュアルな制作や文化的研究と直接関係するのかといえば、全くそのようなことはない。例えば戦前の社会主義思想と記録映画の関連についての調査が、いまここにある何かと結びつくのかといえば、それはなかなか難しい。私はひたすら過去に耽溺している。
アクチュアルな文化的研究の前提としての考古学的な知識、歴史への自覚は、ある程度のもの(歴史の授業レベル)で充分なのである。それでもなお考古学的な研究そのものに身を投じるのならば、それは直接的なレベルにおいて制作活動や文化的研究とは決別するということなのである。
アクチュアリティのある文化的研究と考古学的な歴史研究を並列処理することが果たして可能なのか、それとも考古学的な歴史研究に耽溺するしかないのか。
例えばレフ・マノヴィッチはどうなのであろうか。アクチュアリティのある文化的研究と考古学的な歴史研究を両立させた例として挙げられるのだろうか。
http://www003.upp.so-net.ne.jp/jhori/newmedia/manovich_intro.html
マノヴィッチは、今年の日本映像学会大会で講演を行う。このような自問自答を繰り返しながら、京都まで講演を聞きに行くつもりだ。
http://www.kyoto-seika.ac.jp/eizou/jasias2008/index.html