SUTCLIFFE JUGENDの真価は、比類のない暴虐(Kevin曰く“Ultra Violence”)的なノイズを、具体的な象徴/指示対象を有しないままにリスナーに向かって投げ出すこと。そして、その指示対象が明確でない極端に暴虐的なノイズとそこに付着する憎悪を、普遍的な憎悪としてリスナーに取り込ませることにあったのではないかと思う。
この点において、SUTCLIFFE JUGENDの作品におけるアートワークの素っ気なさは大きな意味を持つ。近年のアートワークであれば、CMIからの各作品や「The Fall Of Nature」「Transgression」などは、そのストイックな情報量の少なさにおいて、象徴/指示対象の破棄を達成しており、実にSUTCLIFFE JUGENDらしい純白の殺意を感じさせるものとなっていた。大変素晴らしい。そこにまだ象徴/指示対象があるとすれば、それはただひとつの象徴としてのピーター・サトクリフの名のみである。
しかし「Pigdaddy」のアートワークは、SUTCLIFFE JUGENDの暴虐でありながら象徴/指示対象を破棄しているという持ち味を相殺しかねない、アウトサイダーアート的な軽さと危うさを持っている。こういった方向性を持つノイズユニットは得てして中途半端である。SJの今後の活動において、おそらく杞憂であるとは思うが。
ノイズ/パワーエレクトロニクスにとって、音と同じ位にアートワークは重要である。これは表層的な格好を気にする軽薄なアーティスト気取りのスタンスとは全く異なる。
狭義のノイズは音楽にまつわるメディアの各部位に対して、極めて批判的、政治的に向かい合うものであったと理解している。(音響的なノイズは、勿論それはそれで意義があるが、ここでは除外される。)
制作過程、結果としての音、アートワーク/言葉(象徴、コンセプト)、流通形態(例えば、なぜノイズにおいてはカセットテープというフォーマットが、単なるフォーマット以上の意味を持ったのか)。「カテゴリー:音楽」を成り立たせるこれらの部位に対して自覚的であること。それは極めて政治的であり、そこに狭義のノイズの魅力があったと考える。狭義のノイズにおいては、ただ音内容が良ければいいというような価値基準を私は採用しない。