カテゴリーの無効化やジャンルをミックスした批評、私は常々この手の考え方が大嫌いであった。私は狭いカテゴリーにおける専門性というものを支持する。例えば文学を知らないやつに文学が語れるのか、実験映画を知らないやつに実験映画が語れるのか、プログレを知らないやつにプログレを語れるのか。
カテゴリーを越境し、非専門の領域までを対象に含めた批評。それは違った角度からの言説によって誤配や別解釈を生み出すことを狙いとする。それはうまく行けば狭いそれぞれのカテゴリー内部にて形骸化した価値観を揺るがせる。そこから新しい価値観が生まれることもあるだろう。
しかし私は彼らのやり方を全く肯定できない。2008年の今日、細分化され混沌とした文化的社会空間の状況は底が見えたような感すらある。(勿論局所的に見れば純文学やアカデミックな西洋音楽のように凝り固まったカテゴリーも存在するだろうが)もうとっくに文化の垣根はゼロに達していると私は判断する。これ以上ジャンルの混淆を行う必要はない。状況は先行している。
そこでこの状況に対し、私は文化にまつわる言説における専門性の復権を期待する。
根拠なき、立脚点なき越境的批評はやり方を誤っていると言いたい。カテゴリーを漂いながら渡り歩く限り、有益な誤配や別解釈など(多くの場合は)生まれないと思うのだ。そのカテゴリーに対する知識のなさを指摘されると、そもそも知識が不要である、大切なのはモノの見方であるといった考え方にも疑問がある。
こう言うと、まるで私が既成の形式や価値観にこだわり、大きな物語を復活させようとする進歩主義的な反動モダニストだと思われるかもしれない。しかし違う。私には骨の髄までアヴァンギャルド精神が染み渡っている。定型化した形式や価値観があると、それを引き剥がし、異化させたい、可能性を実践的に検証したいとすぐに思ってしまう、そんな人間だ。
しかし、アヴァンギャルドであるからといって、定型化した形式や価値観を何でもかんでも引き剥がせばいいというものでもあるまい。児戯のように何でも混淆して、ゼロにして、カテゴリーを壊すことを目的として何になる。
私は、アヴァンギャルドとしての価値観の引き剥がしと形式の異化は、いったん専門性を踏まえたうえで行われるものだと思うのだ。そして専門性を踏まえたうえで、カテゴリー外部を取り込むことが極めて重要である。カテゴリー内部の形式を突き詰めたうえで、必要に応じてカテゴリー外部を取り込みながら、巧妙に組み替える。これは消費文化にまみれながらジャンルの混淆をキッチュに行い、目新しければすぐに全肯定するような(そしてすぐに消費するような)スタンスとは全く訳が違う。
自らが立脚するカテゴリーの専門性を踏まえ、そのカテゴリーの形式や価値観が瓦解するかしないかのギリギリのところで、カテゴリー外部を参照し、花田っぽくいうならば楕円的にアヴァンギャルドな転形を試みる。それは異化され変化してゆく、そんな状態の直中にあるものだ。
少し話はそれるが、この話は文化と社会の全体性の話とも関わってくると思う。私は文化と社会に全体性が存在することを望んでいる。そして共同体意識を強く自分の中に持つように心がけている(こう言うと左翼っぽいが)。この文化と社会の全体性への信頼があってこそ、私は言説における各カテゴリーごとの専門性の復権を期待することが出来るのだ。
追記:
ここでの共同体意識については、アナキズムのように全体性という基盤のうえに立った個人主義的なものを意識している。ただ、文化についての話と、社会についての話は分けた方が良かったかもしれないとも思う。ここで専門性の復権を期待するとしているのは、あくまで文化の領域についてである。