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一項目であることと多様性について

私にとってネットとは、アナキズム的な微細な項目(=個人)の集合体そのものである。アナキズム的というからには、その集合体には基盤となる共同体意識が必須であるが、私はそれを不可視なものとしてとらえることで、強引に「不可視ゆえに存在している」と承認している。現にネット上で項目としての各個人が各々勝手に動いていることで、私は不可視の共同体意識が存在することを承認することができる。この共同体意識とは「大きな物語が存在しないという物語」であり、「"多様性の承認"の承認」であること言うまでもないだろう。

ただし、その「大きな物語が存在しないという物語」「"多様性の承認"の承認」という、すべての基盤となる共同体意識を、各項目(=個人)の実践のレベルに持ってきてはいけないと思っている。数日前のエントリーでも書いたが、個人の実践のレベルにおいてまで何でもありとなってしまうと、それは危険ではないかと思えるのだ。各項目(=個人)のなかに多様性を持たせてしまうのと、各項目(=個人)が固有性を持ちながら外部に自らを開示し(=共同体意識を持ち)多様性の一項目となるのは全く別のことだ。そして、その開示によってこそ、各項目(=個人)は固定化することなく、変化の契機を常に孕み続けることができるのだ。

私が批評家のみを名乗る人間を嫌悪するのは上記のような理由からだ。彼らは他者(=他の項目)を批判する時に、自らの立脚点となる専門性を持たない。項目(=個人)のなかに多様性を持たせてしまったがために、何が自分の本体なのかもハッキリしないままに浮き草のように振る舞い、専門性を持たないがゆえに浅はかな言葉しか発せない。

例を挙げる。映画を専門とする者が映画を論じるのは有意義だ。音楽を専門とする者があくまで自らの立脚点から映画を論ずるのも有意義だ(その言葉は論じる者をも逆照射する)。しかし何を専門としているのかよくわからない者が映画について語ったとき、その言葉は有意義であり得るのだろうか。これはどのようなカテゴリーであろうと同じだ。

このような意味で、例えば東浩紀が哲学者であることと批評家であることを分けて、全体の一項目としての専門性を持っていることは大いに納得がゆく。ただ、私の誤読かもしれないが、東浩紀が下の世代に対して、専門性を否定することを良しとする発言をしているように見受けられるのには疑問を感じるのだが。なにか問題が混同されているように思えるのだ。

いろいろな意味で自戒を込めて。

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2008年08月30日 21:38に投稿されたエントリーのページです。

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