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彼らのルールから、もう私は降りたのだ

とある商業アニメに興味を持って、まとめて観てみた。極端にそちら方面の作品であるが故に、その商業アニメの名前を出すのはここでは止めておこうと思うが、素晴らしい多幸感を与えてくれる作品だった。こんなのを観ていると、もう現実とかはどうでもよくなる。これが東浩紀の言うところのオタク文化におけるリアリズムなのだろうか。

もちろんどうでもよくなるといっても、現実の人間関係から忌避するという訳ではない。

ここでいう、どうでもよくなってしまった「現実」とは事物としての現実ではない。事物としての現実は常に最重要であり、そこから逃避するつもりは微塵もない。私がどうでも良くなってしまった「現実」とは、一人前の社会人として就職をしている方が偉い、結婚をしている方が偉い、家庭を持っている方が偉いといったような、勝手に決められた、勝ち組や安定層が考える価値観/イデオロギーそのものである。だから「勝ち組、安定層のイデオロギーによってとらえられた現実」がどうでもよくなったと言った方が、意図はより明確になるだろう。就職や結婚や家庭といったものから得られるであろう充足は、私の場合、別のものによって充足されている。これは何かの代償行為ではない。彼らのルールから、もう私は降りたのだ。

私の場合は、私的な部分はオタク系列サブカルチャーと、日常の人間関係で充足された。そして歴史的・社会的な部分は(不安定な身分ながら)芸術について研究することによって充足されている。ただしこれは、私が幸いにしてそうであったというだけである。

しかし、今日の非正規雇用の増大によって貧困層、不安定層の拡大される困難な社会において、「勝ち組、安定層のイデオロギーによってとらえられた現実」からはじき出された若者の全てが、何らかの手段によって自分なりの承認と充足を得ることができるのだろうか。恐らく何割かは無理だろう。その何割かは、到底自己責任とはいえないような降り掛かった状況下において、一体何によって承認と充足を得るべきなのか。(昔であれば、天皇、マルクス主義、宗教などが象徴として機能していたので、たとえはじき出されても個人の承認と充足はカバーされていただろうが、今やその効力は著しく無効化している。)

私は思う。ここに文化の、イデオロギー装置としての社会的役割があるはずなのだ。

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2008年09月02日 22:33に投稿されたエントリーのページです。

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