「Audial Decimation Compilation Vol. 1」を聴く。Brethrenの駆動音を分断する溜めに溜めた叫び声に合わせて拳を振り上げ、Prurientの巧みなヴァイオレント・ハーシュに笑みがこぼれる。近頃たまたま著作を読んでいたので連想したのだが、バタイユの「侵犯と至高性」と、パワーエレクトロニクスを聴くことは何か似通っていると思えた(最終的な指向は異なるのだが)。
前者は禁止を侵犯することで、至高の瞬間に辿り着く。後者も音楽においてモラルを侵犯することで、ある種の高揚に辿り着く。この点において両者は似通う。しかし前者にみられる、至高の瞬間の先にある「全体性への指向」は、後者においては受け取ることができない。後者の多くは高揚の段階において停まっているように思える。自分自身すらも蕩尽してしまう、死への欲動が希薄であると言ってもいいだろうか。この段階を乗り越えることが出来たのは、唯一過去のMBだけであったように思う。