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ブラックメタルに限った話ではないが

多分、サンの影響だと思うのだが、サブカル音楽系列の人たちが雑誌でブラックメタルについて言及する例が近頃散見される。しかしそういうのを目にする度に、その前に押さえるべき前提や作品があるんじゃないかと思ってしまう。こう言うと閉鎖性とか特権性とか言われそうだが、私は何もジャンルの縄張り意識や、小さなプライドからこのようなことを言うのではない(実際のところ、もうブラックメタルを殆ど買わなくなった私は、到底ブラックメタルリスナーとは言えないだろう)。

私は以前から、彼らが他者の文化に対してとっている、このような態度が好きではない。私には彼らの言うところの、カテゴリーの専門性にとらわれずに多様性を享受するというスタンスが、結局メタ消費に拍車をかけただけの横滑りにしか見えない。

AをAの価値基準において把握し、そして次に把握を経て見出されたAの要素をBに導入する。それによりBの価値基準は揺らぎながらも、B'やCへと変化してゆく契機を孕むことになる。それは単純なA+Bという併置とは異なる。これがフォスターが述べていたような肯定されるべき「抵抗のポストモダニズム」の方法論であったと解釈している。しかし彼らの80年代〜90年代的残滓に塗れた多様性の陳列と大量消費は、私には「反動のポストモダニズム」の延長にしか見えない。彼らは他者の文化を簒奪しながらA+B+C+D+E.........という併置、あるいは忘却を延々と繰り返してゆくだろう。

しかし、それは結局は何も信じていない、何も愛していないという態度ではないか。もちろん盲目的に何かを信じて、その信じるものに対しての批判を許さないという態度は実に面白くない。しかし、何も信じていないという態度も、これと同じくらい面白くない。

私が面白いと思うのは、何かを信じながら(帰属しながら)も、それに対する批判意識も常に持ち合わせており、場合によっては自分の信ずる(帰属する)ものを揺るがせ崩壊させることをも厭わない、というような態度である。それは相反する矛盾を抱えながら、その矛盾を変化の契機へと転じさせる。花田清輝的な楕円の思考といってもよい。

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2008年09月30日 22:37に投稿されたエントリーのページです。

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