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部分と全体

批評とは社会学的な装いのもとに、異なるカテゴリーの事象をピックアップして、連想的に社会の出来事や文化や経済等を絡めてエッセイを記すことに過ぎないのではないかと、近ごろ思えてきた。全体的な視点に立脚して横断的に情況を語ることは重要であり、大衆の意識の指標、時代の精神の指標として機能するだろうし、私はこれを否定するつもりはない。
しかし自分としては、そのようなカテゴリーを横断し、全体的な視点で情況を語るような意味での批評、敢えて言うなら社会評論や時事批評の類いに興味はない。私は特定のカテゴリー、すなわち部分に帰属しながら全体的な視点を持つことも意味のあることだと思っているし、それこそ自分のすべきことだと思っている。哲学者や心理学者や社会学者が批評家を兼ねるように。
一方で社会評論や時事批評のような批評も、全体的な視点を示す交通整理的な役割において必要だと思う。しかし批評の側が全体性の名において、特定のカテゴリーにおける言説の否定、個別の価値観の簒奪にはしるのは行き過ぎであると思える。私は彼らの言説の背後にこそ閉鎖的、特権的な精神性を認める。交通整理役としての批評は、あくまで交通整理役である。部分が存在しなければ全体も形成されない。部分が各個で別々の言説を築き上げ、中心もヒエラルキーも存在しないままに外部へ開示され、変化に晒されることが望ましい状態であると考える。

追記:
いくつか追記したい。彼らはハイカルチャー(現代美術、文学、アカデミックな現代音楽、その他アカデミックな文化研究全般)を否定し、ローカルチャー(アニメ、マンガ、ラノベ、JPOP、ダンスミュージック、オルタナティヴな音楽など)を肯定する。文化的なカテゴリーや作品に対して価値の上下を設定することが無意味であると述べ、ハイカルチャーがローカルチャーを見下しているとヒエラルキーの存在を糾弾する。その気持ちは分からないでもない。
そして、彼らの戦略は価値の相対化、多様性の陳列によって実行される。ハイカルチャーは価値を引き落とされ、ローカルチャーは水増しされる。これにより、あらゆる文化的なカテゴリーを横並びにする。彼らがラノベやマイナー音楽に対してやっていたこととは、まさにこういうことだ。ここまでは私も賛同できる。
しかし、ここからが不味い。彼らはハイカルチャーとローカルチャーを横並びにするだけではなく、権威性、特権性、閉鎖性といった言葉を用いて、特定のカテゴリーにおける言説の否定、個別の価値観の簒奪=歴史性の否定にまで向かい始める。一切の価値観が無効化され、全てが併置されたフラットな文化的空間は一見良いもののように思えるが、社会的空間にまで範疇を拡大して考えるならば、実際には不味い状態だ。その消費の混乱のなかでは新たなカテゴリーの形成、個別の価値観の形成も行われることはなく、文化的空間/社会的空間はひたすら断片化し拡散してゆく。(ここで動物化という概念が果たして有効なのかどうかはまだ留保とする。)
私の考えとしては連続的に形成されてきたカテゴリーの個別の価値観=歴史性とは、ハイカルチャーだけのものではなく、どのような文化にも備わっているものだと思う。現代音楽には現代音楽の、アニメにはアニメの、グラフティにはグラフティの、マンガにはマンガの歴史がある。それぞれの社会的条件のなかでカテゴリーの個別の価値観は形成され、歴史化してきたのだから、必要以上に価値の無効化は行うべきではない。一切の価値観と歴史性が無効化され、全てが併置されたフラットな文化的空間/社会的空間にその先は見えない。この話は現在の政治状況とも無関係ではないはずだ。

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2008年10月08日 06:12に投稿されたエントリーのページです。

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