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芸術と政治は常に出会っていた

このところ、ある論文をまとめようと苦戦していたのだが、今回は諦めた。理由は、ひとえに自分の中の歴史的パースペクティヴをまとめるには、まだまだ調査不足であると判断したためである(要するに自分の怠惰のせいである)。基本的なアイデアとしては、ポスト近代資本主義によって社会空間が包摂されたというネグリの論理を引きつつ、そこからマルチカルチュラリズムやマイクロポップの芸術を批判するつもりでいた。これらは結局のところ多様性をまずい方向に拡大しながら、膨大な項目のうえで横滑り(=消費)を繰り返しているに過ぎないのではないかと。

このような前置きで、美術の現状を批判した後に「マルチチュードの芸術」を展開する…そのような安直なプランが実行できればどんなに楽だったろうか。実のところ私は「マルチチュードの芸術」については、可能性を感じつつも引っかかるものを感じている。一方で私は毛利嘉孝や福住廉のスタンスにも違和感を持っているのだが、これらの違和感はどこか似ている(彼らの文章をそれほどしっかり読んだ訳でもないので、誤解しているのかもしれないが)。芸術の歴史が、何か軽く扱われているように思えるのだ。まあ後者のグループは、ある意味では社会学者らしいとも思うが。

歴史とは、それ自体が多層性を持つものであり、それ故に過去のあらゆる地点において社会化した芸術とは、すでに存在していたのではないだろうか。「芸術と政治の出会い(そこない)」と毛利はネグリ来日騒動の際に書いたが、「芸術と政治は常に出会っていた」のではないだろうか。これは反動的なモダニズムや一元的な歴史主義とは無縁の思考である。ここから別の歴史的パースペクティヴを把握する必要があったのだが、どうも納得のいく形にまとめきれなかった。時間はあったはずなのだが、計画性がなさ過ぎて。とりあえずこのアイデアは別の機会に流用するので、調査は続行するつもりだ。

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2009年05月14日 20:46に投稿されたエントリーのページです。

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