5/26-6/1
5/26
11時より移動して、夜7時に羽田着。
5/27
午前はせっかく東京に出たので家具を下見。名市大の退職金でソファを購入しようかと。午後からは山口勝弘さんを訪ね、戦後アヴァンギャルド芸術の始まりについて聞き取り調査をさせて頂く。花田清輝と瀧口修造の対比、それによって戦後アヴァンギャルド芸術の核心を把握出来るような気がする。その後、横浜美術館にて松永さんと打ち合わせ。加えて開催されていた「金氏徹平」展を駆け足で観る。夜は知り合いと飲み。
5/28
午前中は国立近美にて、山口勝弘関係の資料を閲覧させてもらう。瀧口修造が山口勝弘に宛てた葉書の複写など、目眩がするような資料ばかり。そして昼からは「ヴィデオを待ちながら」展を観る。近美の大谷さんらとお話しした際に聞いたところ、出品作を全て見倒すと13時間かかるらしい。なるべく全部観るようにしていたら、半分もいかない辺りで時間切れ(笑)。数日後もう一度観に行くつもりだ。その後、牧野さんと渋谷で待ち合わせてワルシャワに行き、CDを一枚購入。そのまま近くのベトナム料理屋にてNo Fun Fest上映の土産話を聞く。牧野さんがPrurientと親しくなったというのは、かなり意外な話だった。パワエレのような後ろ向きでネガティブな音楽を聞いている牧野さんの姿は、ちょっと想像がつかないが(笑)。Prurientの「Cocaine Death」等を聴かせてもらう。しばらくして石田尚志さんと松山由維子さんも合流される。お二人には初めてお会いするのだが、以前より牧野さんからいろいろと話は聞いていたので、あまり初めましてという感じもしなかった。お二人の作品集まで頂いてしまって恐縮する。そのまま閉店まで飲む。
以下、ワルシャワにて本日の散財。Grey Wolvesのカセット作品のCD再発。PrurientのレーベルであるHospital Productionsより。
Grey Wolves - Judgement / CD
5/29
名古屋へ新幹線で移動。前の職場に顔を出して、食堂のおばさんや一部の方々に挨拶。顔を見ると不快になる教員が何名かいるので、名古屋市科学館へすぐに移動。メアリー・アン・ドーンの講演「時間は空間になったか?―映画、デジタルアート、予告編」を聴く。時間が空間化する~すなわち時間という連続性のなかで不可分なものとして存在していたものが、近代において物や数値に置き換えらてきた流れを、ベルクソンやジェイムソンを参照しながら確認する。そして、それを最近のハリウッド映画の予告編、蔡明亮『落日』の映画館のシーン、杉本博司の写真、ジム・キャンベルの『照射される平均値 #1』から読み解くという内容であった。確かに時間性が映像において、どのように切り刻まれ圧縮されているのかを考察するのは興味深い。しかし、個々の例に立ち入ると杉本博司やジム・キャンベルといったサンプルは、この問題設定においては意図的なバイアスがかかり過ぎている気がしないでもない。
会場では久しぶりに堀さんと再会。堀さんの同僚だという門林さん達と連れ立って飲み。私はカテゴリーとしての「実験映画」内部の閉じた状況を批判しているが、その一方で「実験映画」外部の、具体的にはある種のフィルムスタディーズの研究者が実験映画を論じることにも違和感を覚えている。そんな悩みを聞いてもらう。話しているなかで堀さんに指摘されて痛かったのだが、やっぱり私の考え方は矛盾している。単に私の心が狭いだけではないのか、という気にもなる。それに引き替え、堀さんや門林さんのフーコー的な射程の広さはどうだ。何だか私が極めて細かい所で小さな事柄にこだわっている小さな人間のように思えてくる。途中で堀さんらと別れて、約束していた知り合いらと飲みへ。
5/30
名古屋にて一泊。午前中は昨日会えなかった知り合いと会う。その後、名古屋大学の映像学会大会へ。メアリー・アン・ドーンの講演「クロースアップ―映画における不動性とスケール」とディスカッションを聴く。本日はクロースアップの問題を取り上げていたのだが、問題設定のベースにあるものは、昨日の講演と同じく、近代が様々な方法によって(クロースアップの問題においてはスケールの可変によって)対象を空間化したということだろう。このなかで劇映画のサンプル(西部劇など)に混じって、ウィラード・マースとマリー・メンケンの『身体の地理学』が取り上げられており、やや唐突だなと思えてしまった。フィルムスタディーズのコンテクストにある研究者が幅広い関心を持ち、実験映画について言及することは評価すべきことなのだが、これは適当な言及だったのだろうか。あるいは「実験映画」という狭義のカテゴリーを脱構築するような有意義な言及だったのだろうか。
このように思ってしまったことは講演の問題ではなく、むしろ私の過去の経験に理由がある。私は昔、あるフィルムスタディーズの研究者に、私が実験映画やビデオアートを研究していることについて、「これは(私のやっていることを指して)ジャーナリズムだね」と言われたことがある。この言葉は今も私のなかで重く響いている。誤解のないように言っておくと、そのフィルムスタディーズの研究者に悪意があったとは全く思っていない。むしろ、その言葉は私個人の書いたものの粗末さに向けられたのではなく、何か別のものに向けられていたように感じられる。そして、その言葉は私のなかで「フィルムスタディーズにおいて実験映画やビデオアートが軽視され、劇映画ばかりが言及されるのは何故なのか」という疑問が浮上する契機となった。その出来事の後しばらくしてリピットさんや堀さんと出会って、彼らの実験映画やビデオアートへのスタンスに共感を持ったこともあり、その疑問も随分解消されていたのだが、この日は久しぶりにその疑問について考えさせられた。
講演終了後、懇親会をパスして名古屋大学を後にし、今池で知り合い何名かと会う。この知り合いとの話し合いのなかから、また一つ面白い試みがスタートしそうな気配。そして最終ののぞみで東京へ戻る。今回は越後谷さんと会う余裕がなかったのが残念だ。
5/31
先日、半分しか観られなかった「ヴィデオを待ちながら」展の続きを観ようと、再び国立近美へ。閉館ギリギリまで作品を見続けて、何とか全作品を見倒した。さすがに長い作品は最後まで見られなかったが、30分以下の作品はなるべく最後まで観るようにした。つい先日メアリー・アン・ドーンの講演を聴いた訳だが、この展覧会を「ビデオやフィルムといった映像メディアが、芸術のコンテクストにおいて身体/行為/場所をどのように空間化したのか?」という問いについての、豊富な回答集としてみると面白いなと思えた。特にロバート・スミッソンの『スパイラル・ジェッティ』が強く印象に残る。ただ、展覧会自体はかなり楽しかったのだが、ビデオアートの歴史や美術家のフィルム作品と隣接する他ジャンル(実験映画)の関連が問題にされてこなかった国内の状況下では、本展がビデオアート周辺の歴史を踏まえる展覧会であると理解されかねない構成であることが少し気になった。
その後、新宿に出てユニオンを巡回する。欲しいレコはあったのだが、金が足りなかったので何も購入せず。
6/1
午前中は家具を購入しに行く。念願のソファだ。これでもう床に薄い布団を敷かなくて済む。その後、帰路につく。


