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Review: Art Animation/Anime Archive

2007年09月22日

皮膜的刺激装置としてのアニメーション: ロイツマMADと「リボルバー」

最近ロイツマMADが頭のなかで繰り返されて離れない。その多くは商業アニメが素材で、このところネットで多く見かけるようになった。商業アニメの断片が数秒単位で繰り返されるという、ある種の中毒性を帯びたMADムービーである。何故ロイツマか?、その発生については以下を参照のこと。
ロイツマ・ガール(Wikipedia)

振り返ってみればアニメや漫画といったサブカルチャーは、ひとつの作品として自律し観る者に受容されるべき存在であるとは言い切れず、視覚のツボをひたすら刺激するガジェットであると言った方が適当な一面がある。もちろん作品によって程度の違いはあるのだが、これらサブカルチャーはパブロフの犬のような、反射的な受容を引き起こす文化形態である。ストーリーを見るとき、我々は本当にストーリーを見ているのか。職人芸的作画や作家主義的演出を見るとき、我々は本当に作画や演出を見ているのか。

商業アニメの造形的な面における幼稚さ、そして芝居がかった稚拙な演出様式には大して思い入れもないが、商業アニメもアートアニメーションも含めて、あらゆるアニメーションは実写映像よりも圧倒的に情報量が多いと思う。(実写映像ほど平坦で退屈なものはない。それは見慣れた日常の延長である。)その情報量の多さ故にアニメーション=動画は極めて単純な絵や動きであっても、そこに観る者を引き込む求心力を持つ。(加えて無機的な事物に“本質的なるもの”が付与されるという錯誤、それも錯誤を前提としてのメタ的な錯誤感覚との戯れにも、その求心力の要因が求められるだろう。)その極北がこのハードミニマルな刺激装置としてのロイツマMADなのかもしれない。


odell.jpg
JONAS ODELL - Revolver
( - , 7min53sec, 1993)
さて、ロイツマMADといえば思い出される作品がある。それはスウェーデンのジョナス・オデル(PVも制作している)らによる傑作「リボルバー」である。奇怪かつ意味深な数秒単位のアニメーションがループし、しばらくして次のループアニメーションが始まり、そしてしばらくしてまた次の…といった具合の構成で、観る者は進行も退行もせず微細な差異のなかで表層と戯れる。その具体的イメージは引き上げ網にかかる赤子、路上に転がる心臓に群がる虫、溺れ続ける人、数歩ごとによろめく棺桶を担いだ男などなど。サウンドトラックもアンビエントなループを繰り返すのみ。一応、微細な差異の反復が積み重なって終盤で飽和寸前まで行くが、結局最後は冒頭に戻る(ただし全く同じではない)。単純にシュールという言葉では回収できない、そんな忘れられない作品であった。

何故自分のなかでこの「リボルバー」が反復し続けていたのか、その疑問がロイツマMADを観ることで解けたと思える。両作品は同じ反復的刺激機能を持っている。そしてその反復的刺激機能とは、アニメーションの持つ“豊富な情報が微細にズレながら刺激(=変化)を持続する”という基本項目の拡大でもある。言うなれば、アニメーションとは快楽的な皮膜的刺激装置なのだ。もちろんこれは「アニメは暴走したポストモダンである」と言うような、嗜好優先の文脈異化的な意味で言うのではない。ここで言う“皮膜的刺激装置である”とは、もっと生理的なズレのレベルでの話である。

2008年08月02日

「イヴの時間」と商業アニメ的スタイルの個人制作アニメと黒坂圭太

吉浦康裕の「イヴの時間」を観た。本作はYahoo動画(8/1より)と公式サイト(8/3より)にて観られる。以下、公式サイト。
title.jpg
http://timeofeve.com/

吉浦康裕は今回より個人制作ではなく小規模集団制作へと移行し、商業アニメの制作形態へと接近している。新海誠もそうだが、商業アニメ的スタイルの個人作家が作画面でのクオリティアップを求めると、どうしてもこういうスタイルになるようだ。しかしながら作品全体においては一個人のコントロールが通常の商業アニメよりも可能なため、個人の作品として受け取ることが出来る。従来より個人制作のアニメといえばアートアニメーション寄りのものがほとんどだが、こういう商業アニメ的なスタイルを持った個人制作(あるいはそれに近い小規模集団制作)のアニメはもっとあっていい。

新海誠も吉浦康裕もそっち方面(オタク系列文化圏)からスタートしているが、こっち方面(実験映像、アートアニメーション系列文化圏)からスタートして、いい意味で商業アニメというか、マンガのテイストに接近しているのは黒坂圭太となるだろう。「緑子」の公開はまだでしょうか。以下、黒坂圭太によるPV。

私も学生時代に、一時期アニメ制作に関心を持ち数カットだけ商業アニメのスタイルを模倣して作品を作ったことがあったのだが、とにかく楽しかった。商業アニメやマンガの表現形式を、即下らないものとする精神性はよろしくない。問題があるとすれば、それは文化に付随する社会性のあり方についてだ。

2008年08月20日

今期の商業アニメについて

今期は「ひだまりスケッチx365」「鉄腕バーディー」を視聴中。商業アニメについては、実験映像方面の作品を観るのとは違う脳ミソで作品を視聴しているように思う。これは心地良いか否かのみの、極めてシンプルな感覚的判断であり、食欲とか性欲とか、そういったものに近い部分で作品を受容している。さらに、デフォルメされていながらも、妙にリアリズムを感じさせる日常を描いた作品が特に好みだ。

これを日常の埋め合わせと言われようと(その通りなのだが)、商業アニメを見るのは止めないだろう。ただし左翼寄りというか、ゆるやかな共同体意識を持って世界を見渡そうとしている人間なので、さすがに自分の現実をほっぽり出して、架空の世界に没入することはない。その共同体意識自体が現実に存在しない架空の意識だろうと言われると返す言葉もないが。

追記:
どうも食欲とか性欲とか極端な例を挙げてしまった気がするので訂正して付け加えると、やはり表現形式においてユニークな試みー演出、作画ともにーを行っていることが望ましい。いくら何でも単なる萌えアニメは観ていて辛い。
これは実験映像方面の作品を観るのと同じ脳ミソ=価値観も、作品によっては、商業アニメを観る時に使っているということである。今期の2作品で言えば「ひだまりスケッチx365」には実験映像方面の作品を観る時の価値観も使っている。反対に「鉄腕バーディー」では実験映像方面の作品を観る時の価値観は使っていない(シンプルに楽しんでいる)。「ひだまりスケッチx365」は、いや新房昭之はアヴァンギャルドだ。

2008年10月07日

今期の商業アニメ

「ひだまりスケッチx365」もそろそろ終わりだが、今期の商業アニメでは「かんなぎ」が面白そうだ。京アニを追われたヤマカンの仕事に期待している。いつものように多くの作品を片っ端から視聴していくが、一体いくつ最後まで視聴するのやら。それでも毎期一つはすごく良い作品と出会えるので、大して心配していない。ここ最近では再放送でようやく観た「精霊の守り人」、「みなみけ(一期)」、「狼と香辛料」、「紅」、「ひだまりスケッチx365」あたりが個人的に良かった。どれも単純な萌えアニメではない(「狼と香辛料」は微妙だが)。劇映画や実験映画、現代美術とは全く異なる文化的コンテクストではあるものの、商業アニメもやっぱり楽しい。
それでも私の場合、持ち時間と所持金全体にしめる割合のなかで、劇映画/実験映画/ドキュメンタリーや現代美術にかける時間と金が90%だとすれば、商業アニメは10%くらいに過ぎないのだが。

追記:
結局、「かんなぎ」の他には「とらドラ!」と「ヒャッコ」を継続して視聴中。

追記2:
その後「かんなぎ」と「とらドラ!」しか観なくなった。

2008年10月30日

みんなで育てるアニメーション

週末に名大で「みんなで育てるアニメーション」というイベントが開催される。とても強い熱意が伝わるイベントなので是非。
http://www.animationtapes.sakura.ne.jp/

2008年11月03日

みんなで育てるアニメーション@名古屋大学

2008/11/1 - 2008/11/3
名古屋大学

名古屋大学で開催された「みんなで育てるアニメーション」を三日間観に行った。特に二日目のシンポジウムが、とても興味深い内容だったので、思うところを述べたい。
まずこの文中で使う言葉について整理しておく。
・「アニメーション」と記した場合、それは広島で上映されるような、所謂アートアニメーションを指す。
・「アニメ」と記した場合、それは日本のテレビアニメにおける、手塚治虫以降のストーリーマンガの映像化としてのアニメーションを指す。(杉井の発言による。実に的確な定義だと思う。)
・括弧無しでアニメーションと記した場合、それは広義のアニメーションを指す。

パネリストは古川タクに杉井ギサブローという、全くコンテクストの異なるアニメーションを代表する二人、そして笠原浩という広島市立大学の教員の方。テーマがアニメーション教育を主眼においたものであったので、この三名の方は、それぞれ大学の教育者として呼ばれたようだ。まずそれぞれが30分程、教育について、アニメーションについて話す。
まず笠原浩は普通にカリキュラムの解説について話し、作品を紹介する。
次の杉井ギサブローの話は初っ端から凄かった。他者の発言を個人の主観でまとめることは良くないが、あくまで私の解釈として記すと、彼はアニメーション教育への批判から話を始めた。プロの業界における「アニメ」の技術を学校で教えるのは(四年では)無理であり、一人前になるのに毎日現場で頑張って10年はかかる。なので学校では「アニメ」の技術よりも、もっと根本の考え方について教育するという話。古川さん達の「アニメーション」と自分たちの「アニメ」を分けて考えているという話。アニメーションの本質は動きであるという話。我々はリミテッドアニメの手法を生み出した。しかしその結果、日本の「アニメ」が動きに注目しなくなったのは残念という話をした。
そして古川タクは、まず自身と久里洋二の話からはじめ、技術教育についての具体的な話よりも、学生が必ずしも商業的な「アニメ」の道を選択する必要はないといったような話をした。

技術をめぐっての杉井の発言からは、業界における技術の研鑽に裏付けられたプロとしての誇りを強く感じた。このような「誇り」はプロの奢りなどではなく、肯定されるべき自然なものだと思う。それにしても私は常々思うのだが多くの「アニメーション」は、そして「アニメーション」に限らず近年の実験映画もインディペンデント映画も現代美術もメディアアートも、技術を安く見積もりすぎてはいないだろうか。もちろん技術力の高さは作品の価値とイコールではない。新しい技術を投入したからといって、それは芸術的価値とは直結しない。しかし、自己表現や芸術の観念に拘泥するあまり、技術を軽視してしまうことは愚かだ。これはPCによる制作環境が普及したことによって、誰もが手軽に作品を制作できるようになったことの功罪といってもいいだろう。

しかし、だからといって個人制作による「アニメーション」を技術的な意味でのアマチュアと定義することは出来ない。「アニメーション」においてもトップクラスの作家は高い技術力をしっかりと兼ね備えている。相原信洋や黒坂圭太、あるいは少しコンテクストは異なるが新海誠はどうだろう。彼らの持っている技術は、プロによる「アニメ」の技術に充分に拮抗する。要するに一律にアマチュア=技術力が低い、プロ=技術力が高いと言い切ることは出来ないということだ。アマチュアとプロの違いがあるとすれば、それは仕事として経済的対価を受け取っているかどうかということのみだ。
アニメーションをめぐる言説においては「アニメ」と「アニメーション」の表現スタイルの違い、技術力の高さ、アマチュアとプロの違いが混同されすぎていると思えるので明確にしておく。「アマチュア=技術力が低い=アートアニメーション的な表現スタイル」「プロ=技術力が高い=ストーリーマンガ的な表現スタイル」と考えるのは固定観念である。たとえ現状そうであったとしても、それは社会的条件が偶然そうであったというだけに過ぎない。

この日の登壇者の間で使われた「アマチュア」と「アニメーション」という言葉の背景については、各人によって揺らぎがみられた。杉井以外の登壇者にとっての「アマチュア」とは誰もが好きな物を自由に作れるようになった、自由に発表できるようになったというポジティヴな意味としてのものであった。杉井にとっての「アマチュア」は「プロ」という言葉の対比の中で技術的あるいは経済的な差異として、あるいは将来「アニメ」ではないアニメーションが生まれてくる可能性の場を指す切実な願いの言葉として使われていたように思う。
終盤での登壇者らの合意としてはテレビ放映されているようなプロの業界で作られる「アニメ」とは異なったオルタナティヴな選択肢として、PCによる制作環境の普及により「アマチュア」による「アニメーション」の制作と上映活動の裾野が広がることに可能性を求める、といったところであった。しかし各人の問題意識において、その言葉の背景には齟齬が感じられた。

個人的には杉井が、将来的に新たなアニメーションを生み出すことを「アマチュア」による「アニメーション」の場に期待していたのが意外であり、考えさせられた。杉井のような戦後日本「アニメ」の歴史とともに歩んできた監督がこのようなことを述べる場合、それは硬直化した「アニメ」の現状への批判意識からくるものであると言っていいだろう。このように杉井の話には自らの帰属する「アニメ」への厳しい批判意識がみられた。対して、「アニメーション」の側の人々の問題意識はやや楽観的すぎる気がした。
この日の杉井の真摯な言葉の数々は、あまりに多くのことを私に考えさせてくれたように思う。実に有意義なシンポジウムであった。

あと三日間を通して観て、上映作品の中に3DCGアニメーションが殆どないのが気になった。3DCGアニメーションは技術が複雑なため、そしてまともな環境を揃えるためには初期投資が高額となるため、ハードルが高いのかと思えた。

2009年01月12日

あれ?

あれ、みなみけ三期、意外と面白くないか?

2009年06月07日

夏期放送予定の新作

もうすぐ「けいおん」も終る訳だが、この作品は実に良かった。女同士の友人関係における柔らかく暖かな集団意識のようなものが、ここまで押し出された作品も珍しいのではなかろうか。制作者の性別(監督とシリーズ構成が女性)で作風を云々言うのは野暮だが、これはやっぱり男には描き出せない空気感ではないかと思う。男がこの空気感を描き出せたら、それは正直微妙な気分だ(笑)。

夏期放映予定の作品で一応チェックするつもりなのが「化物語」「狼と香辛料II」「青い花」。もちろん「ハルヒ」も継続して観る。劇場作品では「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」「サマーウォーズ」。意外なところで本命は「サマーウォーズ」だろうか。

2009年08月06日

最近の話題

「けいおん!」のBDとDVDが売れているらしい。もちろん売り上げは内容の善し悪しとは無関係だが。身近なところでもあまり商業アニメを観なさそうな知人が、「けいおん面白かったですね!」と突如カミングアウトして来るので驚く。萌えの記号的様式を上手く外して、生活感を上品かつ柔らかく見せているあたりが、受けた理由の一つなのだろう。ところで私は澪でもなく、唯でもなく、律派である。番外編を見て目覚めてしまった方も多いことと思う。早いところブルーレイ視聴環境を整えたい。結局何を言いたいかというと、どうか二期を作って下さいということです。

エンドレスエイトについては、制作会社の過去作品に見え隠れしていた、嬉々としてネタに走るようなバランス感の危うさが、奇抜を善しとする製作の方針と相まって、まずい形で露呈したケースだと捉えている。とは言え、エンドレスエイトさえ終れば、続くエピソードを何事もなかったかのように視聴できる、無責任な消費者であることは自覚している。

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