足立正生 - 幽閉者 テロリスト
(Video, 113min, 2007)
名古屋シネマテークにて足立正生の新作を観た。しかし、ここでこの映画についてのみを評することは困難だ。映画を作るということは、すなわち運動家(政治的な意味ではなく、世界と対峙する存在として)であるということなのだから。足立正生の半生をとらえ直そうと資料を読んで、この映画に至る軌跡を思うと、簡単に評することの出来ない自分がいる。いずれ必ずレビューは書くつもりでいるが、いまの自分にはまだ無理だと思い至った。またいずれ。

(Video, 113min, 2007)
名古屋シネマテークにて足立正生の新作を観た。しかし、ここでこの映画についてのみを評することは困難だ。映画を作るということは、すなわち運動家(政治的な意味ではなく、世界と対峙する存在として)であるということなのだから。足立正生の半生をとらえ直そうと資料を読んで、この映画に至る軌跡を思うと、簡単に評することの出来ない自分がいる。いずれ必ずレビューは書くつもりでいるが、いまの自分にはまだ無理だと思い至った。またいずれ。

初期のビデオアートに自分なりの決着を付けてしばらくが経ったが、最近の関心は60年代の記録映画と劇映画にまつわる言説に移りつつある。松田政男の批評を参照すれば、松本俊夫が作家主体として形式を思考しながら作品に向かい(もちろん作品内では現実も止揚される)、大島渚が作品を通して状況に関わり、足立正生は「作家即運動家」として行動すると解釈される。
現実と芸術の関係は、この政治の季節に非常に興味深い形で表面化していた。いわゆる芸術のための芸術という姿勢は社会主義リアリズムからすれば反革命的である。今の私から見てもその芸術のための芸術という姿勢には基本的には賛成ながら、多少の歯がゆさを覚える。形式のみを思考することは、疎外された個の再編成という芸術の本質にとって、極めて貧弱な態度である。そこで形式に現実を止揚し、作品に取り込むことでこれを乗り越えることこそ正解なのであろう。しかし、それでも「作家即運動家」という直接的態度には正直言ってある種の羨望を覚える。
芸術がまったく現実に背を向けたとき、それは工芸や消費文化の一部に落ち込む。当然それは避ける必要があるが、果たして現実は芸術の中でどのように結び付けられるべきなのであろうか。形式の中での止揚も、代替的な状況の描き出しも、ある種の弱さを抱えている。「作家即運動家」はそれを突破するかもしれないが、かつての社会主義リアリズムに通じる危うさは常に付きまとう(今思えば、中谷芙二子らのビデオによる社会的アプローチは、単純ではあったが「作家即運動家」的なものであると思える)。
北小路隆志の指摘によれば、60年代日本の政治の季節の終焉によって松本俊夫は形式主義(実験映画)へ向かい、大島渚は状況を主題としてそこに切り込むことから遠ざかり、足立正生は一兵士として戦場へ向かった(そしてドキュメンタリストたちは、その後の冷めてゆく政治状況のなかで政治の問題を主題とすることの困難を背負い込む)。現実と芸術の問題(あるいは現実と映像の問題)は保留されたままである。(こうなると、足立正生の今後の展開が非常に気になる。)
若松孝二のほとんどの初期作品を観た。私が好きなのは「性賊・セックスジャック」と「天使の恍惚」である。どちらもひとりの人間による個的な闘いがテーマである。これらが好きな理由は、単に私のなかにあるヒロイズムへの憧憬なのではないかと思う。そういえば「タクシードライバー」も好きな作品だ。ここで描かれているものは破滅の美学などという空疎なものではなく、ひとりの人間が状況の中でどこまで個的なスタンスを貫徹できるのかという試行である。…私がこれらの映画を観ることは、それが出来ない自分を慰める行為であることは認めなければなるまい。
他人に裏切られるよりも、速いスピードで自分を裏切らなければ
人殺しひとつ、犯罪ひとつ出来やしない
薔薇色の連帯、それはまず裏切る自分を殺し
同志を殺してゆくスピード以上の冷徹な力が、相集まること
その自分だけの力を、相集まった力と同等に信じること
裏切る以上に強いことを知ること、そうすれば死ねる
「性賊・セックスジャック」
(Film, 190min, 2007)
寒空のなか、早朝から名駅裏のシネマスコーレへ行く。目的はもちろん若松孝二「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」を観るため。少々眠かったのだが、映画が始まってみれば目が醒め、どんどん引き込まれる。
実録というだけあり、字幕での解説やナレーションが随所で入る。全体としては群像劇なので、誰が主役という訳ではないのだが、冒頭パートでは遠山美枝子の視点に、山岳ベースのパート以降では加藤兄弟三男の視点に重心がおかれている。もっと監督の思い入れが前面に出された映画になるかと思っていたが、即物的な事実の描写と個人の視点を重視した映画となっていた(台詞も赤軍兵士の手記に基づいているようだ)。特に山岳ベースのパート以降の閉塞した空間においての展開は即物的であり、不合理な死がどんどん投げつけられてくる。この異様な加速感のまま、あさま山荘での銃撃戦のパートとなり、ラストでの加藤兄弟三男の視点にこの群像劇は収斂されてゆく。そして再びインパクトを与えるタイミングで記録映像の引用が行われ、その後の赤軍の動向が年譜として示される(足立正生の名前もそこにある)。同時代性と予感を感じさせながら、映画が現実と地続きとなる感覚。これぞ若松作品の特権である。未見の方も是非観て欲しい。
音楽についても述べておくと、オルークはごくごく普通の映画音楽をやっていた。この点に関しては残念。またバーのシーンでは「天使の恍惚」の挿入曲も引用されていた。
映画研究者デイヴィッド・ボードウェル氏のトークイベントが名古屋大学であります。
デイヴィッド・ボードウェル トークイベント開催のお知らせ
「映画美学とアジア映画/Film Aesthetics and Asian Cinema」
デイヴィッド・ボードウェル(David Bordwell) (ウィスコンシン大学名誉教授)
日時:3月7日(金)15:30〜17:30
場所:名古屋大学文系総合館7階 カンファランス・ホール
逐次通訳:山之内悦子(山形国際ドキュメンタリー映画祭)
入場自由
フェリーニの「8 1/2」がようやくDVD化される。紀伊國屋は偉い(高いけど)。
http://forest.kinokuniya.co.jp/ItemIntro/152761
そして大島渚BOXはまた延期、しかも時期未定とのこと。
アメリカ映画・メディア学会(SCMS)の東京での大会が中止になったらしい。私は会員ではないが、恩師や知人が発表をする予定だったので、何日か見に行くつもりでいた。中止理由は新型インフルエンザの流行のためだそうだ。コーディネーターの方の無念をお察しします。
せっかく飛行機のチケットを取ったので、搭乗日を変更して、パスするつもりでいた名古屋での映像学会の大会に行こうと思う。会場はなんと野依記念学術交流館。前に住んでいたマンションからならすぐの場所だが、今回は違う。移動で丸一日潰れる。今回はANAではなくスカイマークで行くので、旭川まで鈍行で出て、そこから羽田へ飛び、そして新幹線という強行軍になる。何でわざわざ行く気になったかというと、今回の講演ゲストがメアリー・アン・ドーンだったからだ。近年、海外のフィルムスタディーズの文脈にある映画研究者に、視覚芸術そのものを論じるような傾向が見られるのだが、実際に講演を聴いてその辺を確認してみたいと思った。しかも関連企画として、以下のような中京大学の公開講座まである。
-----
中部地域で行われる日本映像学会第35回大会に連動して中京大学ではメアリー・アン・ドーンさんの公開講座を大会の前日29日に開催します。
「Has Time Become Space? 時間は空間になったか?―映画、デジタルアート、予告編」
日時:5月29日(金)3:00~4:30
会場:名古屋市科学館サイエンスホール
講演概要:杉本博司の劇場写真シリーズ、jim campbellのデジタル写真、蔡明亮の「楽日」、それにハリウッド映画の予告編などを分析しながら、ベルクソンとジェイムソンがそれぞれの見地から批判的に提起した「時間の空間化」という問題系を、現代のメディア環境に生じている特徴的な現象として読み解き、再考します。
-----
私はフィルムスタディーズの文脈とは一切関わりなく、実験映画や現代美術(ビデオアート、メディアアート)の文脈で今まで細々とやってきたので、商業的な劇映画や銀幕のスターを文化論的に読み解いたりするタイプの映画研究にはそれほど興味がない。だが、この講演内容は興味の範疇、ストライクゾーンど真ん中である。(もう申し込みは終わっているようです。)
あとは、この前後で「ヴィデオを待ちながら」と池田亮司展を観ようと思う。この機会に行かないと会期が終わってしまう。
ブログ「Blog」のカテゴリ「Review: Cinema」に投稿されたすべてのエントリーのアーカイブのページです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。
前のカテゴリはReview: Art Animation/Animeです。
次のカテゴリはReview: Contemporary Artです。