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Review: Contemporary Art Archive

2007年02月17日

大竹伸朗「全景」@ 東京都現代美術館

2006/12/24
東京都現代美術館

最終日。朝一で新幹線に乗り、午前11時前にMOTに到着。実はこの時点では昼過ぎに全景展を見終えて、午後からは他の展覧会に行くつもりだったのだが、まさか閉館時間までいることになるとは思わなかった。午前中ということもあり、人影はまばら(ただし午後からは予想以上に混雑した)。さて、見ようか…と思って会場に足を踏み入れると、いきなり地下から響く轟音。速攻で音の発生源(遠隔演奏ノイズバンド: ダブ平&ニューシャネル)へ向かう。

ダブ平一回目:
ダブ平の奏でるノイズに、ブース内にて大竹氏がギターを重ねるというシンプルながら鋭利な内容。アンプを倒してエフェクターを操作する共演者も加わる。ノイズ好きとしてはこの日見た中で、このセットが一番格好良かった。混沌としたノイズにハーシュなギターノイズが非常に合っていた。ダブ平に楽器演奏者が入ると、どうにもミュージシャンシップが高くなってしまって、個人的には好みじゃなくなる。大竹伸朗の作風にはやはりハナタラシ的初期衝動がよく似合うと思えるので、スカムでノイズに近い形式の方が好み(そう言う意味で、先日行われたらしい山塚アイとダブ平の共演は見ておきたかった)。

ダブ平の演奏が終わった後に、少しだけDJ景(大竹氏らが一日中DJを行うイベント)の方も覗く。その後、まずはショップでTシャツを買ってから、いよいよ覚悟を決めて一気に三階から地下まで展覧会を見る。長くなるので感じたことをポイントのみで記す。

・常に描くことと鍛錬を忘れないで、いかなる時も画家であろうとしてきた。こんな当たり前のことを真っ直ぐに貫く大竹氏は極めて格好良い。それはまるで画学生の頃のままである。
・メディウムの固有性、その露呈としてのコラージュと、そのコラージュによって形成されたイメージ(それは常に成立と不成立の間でグラつく)。これが平面におけるモダニズムの重層性か。
・大竹氏の偏執狂的に多彩な手法と圧倒的な作品量は、彼の芸術家人生自体が全体性と断片性の間でグラついているかの様相で、それ自体が魅力的に映る。
・日本景あたりからコラージュの断片に目が向かい過ぎてしまい、キッチュさやポップさに傾倒しすぎた感がする。
・特に山塚アイとの共作は、山塚氏の作品が徹底してキッチュかつポップであることから、特にその傾倒が顕著に現れていて評価出来ない。ただし音楽の共作は面白い。

とまあ、とても思うところの多い圧倒的物量の展覧会であった。DJ景の方を再度見に行くと、だらだらと歌謡曲をかけながら大竹氏は湯浅氏らと歌謡曲についてトークをしていた。しかし途中でトークを切り上げて、大竹氏がダブ平に向かったので、観客もそちらへ向かう。

ダブ平二回目:
憶えていないが数セット演奏。ブース内の大竹氏は卓とギターを担当し、さらにギター演奏者が二人加わる(どうやら一人はJuke/19のメンバーだった人らしい。もう一人は一回目の時の人)。まず、ダブ平による駆動音のようなギターのパルスとノイズに、大竹氏らのギターが乗る、所謂クラウトロック的な混沌サイケ。これはとても楽しめた。
次にギター演奏者と大竹氏(が操作するダブ平)のセッション的な内容。かなり音楽的でミュージシャンシップが高く、個人的にはもうひとつだった。どうも演奏テクニック溢れる音楽はダブ平に合わない気がする。他にもう一セットやった気がするが失念。終了後、すぐに内橋氏が準備に入る。

ダブ平三回目:
引き続き内橋和久のダクソフォン&ギターとの共演。ハンス・ライヒェルが来日した時以来、内橋氏のライブを見ていないので、彼の演奏を見るのは10年振りくらい。感想としては内橋氏は素晴らしいインプロヴァイザーだし、その活動は高く評価したいが、正直ダブ平のローファイでチープなノイズには合わないんじゃないだろうかと思った。ダクソフォンの奇怪でありながら美しい音も、エフェクターを多用したギターインプロも、やっぱり余りに音楽的過ぎる。音楽としてはいい内容だとは思うのだが。

そのまま大竹氏はDJ景の方に戻り、飛び入りゲストの小説家の方と湯浅氏との三人でトーク。終始和やかで、大竹氏の人柄のよく出た発言も聞けてとても良かった。以下心に残った発言メモ(うろ憶えです)。言うべき人が言うと重みがある。

・「そっちに行ったら大変だろうけど、絶対そっちのほうが人生面白い」と思える方に行くべき。自分の場合も大変だったけど、嫌な思いでなんてない。ゲームのように客観的に自分を見るように。
・議論も大切なんだけど、絵描きなら理解したことを描かなければならない。いい展覧会を見ると、早く帰って絵を描かなければ、という気分になる。

トークがお開きになった後、しばらくしてまたダブ平稼働準備。観客の中に長身の外人さんがいると思ったらシャルル先生。ある件でのお礼を述べさせて頂く。そうこうするうちダブ平四回目の演奏開始。

ダブ平四回目:
後ろの方にいたので編成はよく分からなかったが、これも比較的音楽っぽいギター主体の大人しい感じの演奏。これはこれで悪くなく、ぶらぶらと作品を見ながら聴いた。

最後に網膜シリーズを再度見てから、会場を出る。もう午後6時なので、帰ろうかどうしようか、でも最後にまたダブ平が演奏するだろうしな、と迷いながら軽い気持ちで美術図書館に入る。すると別件で探していた資料をまとめて発見。全て複写してやろうと、まとめて書架から出してもらう。無駄が多いようにも思える複写手続きで時間をとられてしまったので、見るかどうか迷っていたダブ平最後の演奏は結局断念することに。ようやく複写が終わってみると丁度閉館の時間。遠くで鳴るノイズまみれのダブ平の演奏を聴きながらMOTを後にし、長い一日が終わった。

2007年03月02日

告知: シンポジウム「過去からみる美術の現在(いま)」

シンポジウム「過去からみる美術の現在(いま)」(東京都現代美術館サイト)

Session1 11:00〜12:30
テーマ: 「創造」の解放〜ナム・ジュン・パイクからのメッセージ

Session2 14:00〜15:30
テーマ: 日常の実践〜1970年代の美術と2000年以降

日時: 3/4 
場所: 東京都現代美術館 地下2階講堂
定員: 200人(先着順)
聴講料: 各セッション500円 共通券800円

森岡祥倫先生より知らせをいただく。面白そうだ。こういう地道な過去の検証は、絶対に今を読み直すことにつながると考える。そろそろパイクを幻想抜きで、冷静に再考してもよい時期だと思う。

2007年03月10日

告知: Art, Anti-Art, Non-Art: Experimentations in the Public Sphere in Postwar Japan, 1950-1970

Getty Centerで日本の戦後美術を回顧する大規模な展覧会が催される。この関連でMOCAとGetty Centerの企画による日本のビデオアートのスクリーニングがあります(微力ながら資料提供などをさせて頂きました)。是非観に行きたいが、行けるだろうか…。

Art, Anti-Art, Non-Art: Experimentations in the Public Sphere in Postwar Japan, 1950-1970
OUT OF THE ORDINARY: NEW VIDEO FROM JAPAN/RADICAL COMMUNICATION: JAPANESE VIDEO ART,1968-1988

日本においてはポストモダンの流行以降、相も変わらず詐術めいた(ついにサブカルにまで下落した)美術批評が幅を利かせているので、あまり期待はしていない。それは自分が関わった企画を通して身にしみて知った。ただし歴史に対して自覚的で、明確な視点のある少なからぬ方々からは、大変励みになるレスポンスを頂いた事も付け加えたい。批評家やキュレーターのなかで、信頼出来る人と、そうでない人がはっきりと見分けられたのは意味のあることだったと言えよう。

そんなこんなで国内の状況に失望しそうにもなったが、海の向こうから訪ねてきたGettyのキュレーターにビデオアート展とDVDカタログ企画に評価をいただいた時は、本当に嬉しかった(日本のビデオアートだからか、オーストリアのIndexやアメリカのEAIなど、海外からのレスポンスが割とあったのも印象的だった)。

「信頼することのできない」と述べた類いの批評家がこの企画について、国内メディアで情報を発信することはまずないであろうから、国内の現代美術誌にこの企画の情報が掲載されることは多分ないだろう。日本のビデオアートの回顧企画が海外でそれなりの規模で催されるのに、国内メディアがそれを取り上げない。冗談としては上出来だ。

2007年03月19日

芸術/批評 3号「モダニズムとその周辺」

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(東信堂/Magazine)
藤枝晃雄「批評家としての芸術家ー岡本太郎再発見」は岡本太郎の対極主義を取り上げ、岡本を肯定のアヴァンギャルドとして論じる(否定のアヴァンギャルドでもなく、ましてや新しもの好きの流行的アヴァンギャルドでもなく)。論文終盤の我が国における喜劇的な批評の下落の見取り図は、まさにその通りだ。

…やはりこの手の言説を担う真っ当なモダニズム論者と、アート&テクノロジー〜実験映画/ビデオアート〜メディアアートの人間は、もっと分かり合えるはずなのだ。テクノロジーを取り入れた芸術とは、決して新しもの好きの流行的アヴァンギャルドなどではない。他の論文は大久保恭子「シーニェから解くマチス」が興味深く読めた。

このような雑誌があるだけで、救われる人間がこの世に少なからずいる。

2007年07月18日

美術手帖1968年12月号増刊 - 写真 いま、ここに

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(美術出版社/Magazine)

松濤美術館で大辻清司を観て、良かったな…と思っていた矢先、古書サイトでタイムリーに発見したので購入。表紙写真は大辻清司である。

大辻清司の写真 出会いとコラボレーション

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(フィルムアート社/Book)
松濤美術館での展覧会に合わせて刊行された、大辻清司の仕事を包括的にとらえるための一冊(展覧会カタログ版は完売)。

2007年11月02日

河口龍夫 -見えないものと見えるもの- @ 名古屋市美術館

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2007/11/2
名古屋市美術館

「河口龍夫 -見えないものと見えるもの-」展の内覧を観に市美術館へ出かける。河口先生の展覧会は、今回は兵庫と名古屋にて同時開催されている。ここ名古屋での展示は、一階が概念に芸術を向かわせる中で、未成の存在を象徴するモチーフとしての種子に着目した作品群。二階が平面作品や、現象における関係性そのものを扱ったインスタレーションで占められていた。なかでも一室を使って設置された「関係—電流・種子のとき、化石の時」が特に良かった。個人的には河口先生の作品の中では観念的/概念的になった作品よりも、こういった現象性を全面に押し出した作品の方が好みである。
また地下では鉄板に巻いた布に錆を浮かび上がらせる綿布と鉄板による平面作品「《関係—質》」シリーズも展示されていた。一日中ここにいても飽きないような、静謐で美しい空間である。偶発的に、またある部分はコントロールされて生成した錆の痕跡は、その背後に潜む自然の諸関係を垣間見せる。
展覧会の会期中、観客の手によって二階吹き抜け部分から一階に落下し続ける種子が、時間の経過とともに堆く山を築くとのことなので、その最後の姿を展覧会終了日に確認したいと思う。

私にとっては河口先生の行って来られた仕事のなかでも、やはり1970年前後の「現代の造形・映像表現」における映像の使用は大きな意味を持っている。あの時期の関西で発生した極めて興味深い美術家の映像の展開において、河口龍夫が果たした意味は極めて大きい。この辺りの河口先生の映像の仕事をいつかまとめさせて頂きたいと思う。

2008年04月12日

個人的メモ

「芸術とは何か」などという定義を設定することは、対象があまりに広く抽象的すぎて無意味だ。しかし芸術作品に対する評価軸であれば二つ設定することが出来る。社会性という横軸と、「カテゴリー: 芸術」の歴史という縦軸だ。

前者はポストモダン以降の芸術において顕著な評価軸である。作品を社会を構成する何ものかと関係付けて、その社会的関係性込みで作品を成立させるものだ。「カテゴリー: 芸術」を社会に向けて開示する。そこでは芸術における方法・形式の新しさは問われない。芸術はカテゴリーの歴史(=いわゆる「大きな物語」)から解放され、表現それ自体は、目的に対して採用される手段となる。そして芸術は政治を積極的に取り込んでゆく、政治的に己を自覚してゆくことになる(マルチチュードの思想、あるいは「小さな物語」)。

後者はモダニズム芸術において顕著な評価軸である。作品を「カテゴリー: 芸術」の歴史的連続性において位置付け、芸術における方法・形式の新しさ、有効性、意義から作品を判断するものだ。形式主義と言ってもよい。さらに言うと、この評価軸は二つの種類に分けられる。
・まずは形式を主体による外界の認識、その制度化としてとらえ、その純粋化を突き詰めようとするタイプ。これは観念的なスタンスであり、コンセプチュアルアートへと至る、技術の衰弱化と観念の肥大化の過程を辿る。行くところまで行ったので、70年代から殆ど手詰まりの状態にある。このタイプがテクノロジーを用いると、残念なことになりかねない。また同じ観念を有し、それに心酔するものにしか理解されない。
・もうひとつが形式を技術の進歩としてとらえ、今であればテクノロジーの発展を取り込みながら技術的革新を模索するタイプ。メディアアートによく見られるこのスタンスは、その思想的稚拙さ、素朴さゆえに、観念主義者からは往々にして批判される。有無を言わせぬ技術的革新の衝撃は無視できない(老若男女誰に対しても衝撃を与えることが出来る)。しかし企業の技術研究と芸術を何において区別することができるのか、という違和感も残る。テクノロジーの発展と不可分なので、ある種の社会性も持つ。

あまりに大雑把であるが、個人的にはこの見取り図のなかで全ての作品を位置づけようとしている。もちろん、この二つ(もしくは三つ)のうちのどれかという単純な割り切りなど出来ないので、両軸のあいだに位置づけられるのだが。チラシの裏的個人的メモで失礼。

2008年06月26日

「山口勝弘と飛行の夢」と表象文化論学会大会と牧野貴新作上映会

山口勝弘先生より「山口勝弘と飛行の夢」のDMが届いた。世田谷美術館での「建築が見る夢ー石山修武と12の物語」への出品作品ということらしい。明日のオープニングレセプションには行けないが、7月に東京に行く予定があるので観に行く時間を取りたい。この作品、副題が「竹とんぼからイカルスへ」とあり、少年の夢のような無垢さを感じさせるタイトルだなと思った。芸術における前衛を貫き通した末にたどり着いたのが、少年の夢によく似た場所であったというのは感傷的かもしれないが、こういうのは嫌いじゃない。
「建築が見る夢ー石山修武と12の物語」の詳細は下記。
http://www.setagayaartmuseum.or.jp/exhibition/exhibition.html

で、7月に何をしに東京まで行くのかといえば、これだ。

表象文化論学会第3回大会
2008年7月5日(土)・6日(日)
早稲田大学・小野梓記念講堂(5日)/東京大学・駒場キャンパス(6日)
http://www.repre.org/event/conference/index.html

中原昌也の名前も以前のプログラムにあったような、と思っていたら東浩紀のブログにこんなエントリーが。
http://www.hirokiazuma.com/archives/000420.html
だそうだ。

あと、アップリンクで「THE SEASONS - 牧野貴新作上映会」も開催される。
http://www.uplink.co.jp/factory/log/002668.php#more

2008年07月14日

所沢ビエンナーレ・プレ美術展「引込線」

京都から東京に移られた坂上しのぶさんより、展覧会のチラシとポスターが送られてきた。

所沢ビエンナーレ・プレ美術展「引込線」
http://www.tokorozawa-biennial.com/

以下、企画概要より引用。多くの部分で賛同したい企画であるが、特にここ。
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秋葉原風俗を背景にした一連のフィギュア・ポップもその一つといえますが、その凍りついたような人工性と一面性と表層性が、無差別殺傷事件に象徴される、深層からの逆襲を招いたといえます。美術思想とは本来、表面から闇に向かって垂直に下りてゆくパースペクティブを獲得する知であったはずですが、闇を欠いた表層の美術とその周辺は、皮肉にも闇の側に飲み込まれることになったのです。美術が今取り戻さなければいけないのは、表層の快楽ではなく、闇を含めた存在の全体性の回復なのだと思います。
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秋葉原風俗ことオタク系文化にも親しむ私だが、現代美術におけるオタク系文化の援用とその氾濫を指しての批判である点においては、この主張を肯定する。やはりあれら(現代美術のフィールドにおいてオタク系文化、あるいはサブカルチャーの援用を行う一群)は問題を多く孕んでいる。

2008年07月26日

横浜トリエンナーレ 2008

本年度の横浜トリエンナーレの詳細が明らかになっていた。

http://yokohamatriennale.jp/

これは凄い。何と言ってもトニー・コンラッド、ヘルマン・ニッチが楽しみだ。是非関連イヴェントをやって欲しい。トニコンは噂に聞くロッテルダムでやった新作を上映して欲しい。ニッチは観客参加で血まみれパフォーマンスをやって欲しい。本当に楽しみだ。

2008年09月04日

横浜トリエンナーレ関連イベント

エクスペリメンタル・サウンドプログラム

日程: 2008年9月14日(日)19時 - 21時30分・15日(月)19時 - 21時30分・20日(土)19時 - 20時30分・21日(日)19時 - 21時30分

概要: 横浜トリエンナーレ2008参加作家を含む多彩なアーティストらによる、サウンドプログラム。出演予定者については詳細参照。

【スケジュール】
9/14(日)
スティーブン・プリナ、トニー・コンラッド、インキャパシタンツ 

9/15(月)
マーカス・シュミックラー、角田俊也、ウィリアム・ベネット

9/20(土) 
ロビン・フォックス、メルツバウ

9/21(日) 
POP(ズビグニエフ・カルコウスキ&ピーター・リーバーグ)、オーレン・アンバーチ&ジム・オルーク&スティーヴン・オマリートリオ

これは凄い。何故かウィリアム・ベネットまでも(笑)。こうなっては9/14、9/15には行くしかないだろう。9/20、9/21は残念ながらパスか。でもスティーヴン・オマリーらのトリオも気になる。是非ともヘルマン・ニッチにも何かやって欲しい。

いやまてよ、どうせトニコンもFaustも日本にいるんだったらこれをやってほしい。


追記:
横浜トリエンナーレにおける他の音楽関係のイベントは下記。

キャメロン・ジェイミー《JO》 with 灰野敬二ソロ
2008年9月15日(月)14時

小杉武久コンサート
2008年9月23日(火)19時 - 20時


追記(9/4):
エクスペリメンタル・サウンドプログラムのチケットが販売開始された。
http://yokohamatriennale.jp/2008/ja/event/

2008年09月13日

「Dissonances」展

今月末から、豊田市美術館で面白そうな展覧会がある。以下転載。

Dissonances
不協和音 日本のアーティスト6人

2008年9月30日[火]-12月25日[木]
Sep.30[Tue]-Dec.25[Thu]

http://www.museum.toyota.aichi.jp/exhibition/2008/special/000358.html

この展覧会は、戦後日本を代表する6人のアーティスト、オノ・ヨーコ、草間彌生、久保田成子、斉藤陽子、塩見允枝子、田中敦子たちの作品が示す、限りない芸術の探究とその革新性へとたどり着こうとするものです。彼女たちに共通する、伝統的な芸術のあり方や古典的な美の基準とはまったく対照的な制作態度は、同時代のアートシーンを目覚めさせ、若返らせるきっかけとなり、また、日本の現代美術が国際的な舞台へと羽ばたき、世界の注目を浴びる呼び水ともなったのです。
6人のアーティストたちが実践した、芸術というものを「生きること」に近づけようとする道筋は、生まれながらの歴史的、文化的な風土に浸りながらも、そこからは距離を置こうとする姿勢によって特徴づけられるでしょう。彼女たちは、日々の、そして積み重ねられた人生の中に、見失われていた現実を取り戻そうと活動してきたのです。この展覧会は、これら6人の主人公たちが示した、己の芸術的企図とアイデアを表出しようとする抑えきれない衝動を感じ取る場となるでしょう。

休館日
月曜日/ただし10月13日、11月3日、11月24日は開館
開館時間
午前10:00-午後5:30/入場は午後5:00まで
主催
豊田市美術館
協力
日本ビクター株式会社
企画協力
ムディマ・ファンデーション ミラノ
観覧料
一般1,000円[800円]、高校・大学生800円[600円]、中学生以下無料
[ ]内は前売券、及び20名以上の団体料金  *市内高校生、障がい者、75歳以上の方は無料(要証明)
前売券
豊田市美術館、豊田市役所市政情報コーナー、チケットぴあ[Pコード:688-357]で9月29日[月]まで発売

関連事業
●記念講演会
「はみだした女たち」
 講師:針生一郎(美術評論家)
 11月9日[日] 午後2:00-3:30
 美術館1階講堂にて
 当日正午より整理券を配布します(定員172席)
●学芸員によるギャラリー・トーク
 10月25日[土]、11月22日[土]、12月20日[土] 午後2:00より
 1階チケット・カウンター前にお集まりください
●作品ガイド・ボランティアによるギャラリー・ツアー
 木曜日を除く午後2:00より(関連事業開催日は午前11:00より)
 1階チケット・カウンター前にお集まりください
●美術館コンサート
「不協和音もハーモニー?」
 10月11日[土] 午後2:00より
 美術館1階講堂にて
 当日正午より整理券を配布します(定員172席)

※関連事業にはいずれも当日の企画展観覧券が必要です。

2008年09月20日

横浜についてのメモ

週末に再度、横浜に行くつもりなので、全体について書くのはその後で。簡単にメモ書きのみ。

新港ピア:
トニー・コンラッドの謎な作品は一応必見か。しかし謎だ。

日本郵便海岸通倉庫:
ヘルマン・ニッチの血まみれの祭壇や強烈な映像が必見。マシュー・バーニーの映像作品は45分もありながら椅子すらないので、観るには気合いが必要。

赤レンガ倉庫:
ここは映像資料展示がとにかく面白い(映像資料は二時間くらいあれば全て観られる)。

三渓園:
今回の展示で一番面白かったのが実はここ。行くのに時間はかかるが必見。中谷さんの作品は霧が半端な量じゃなくて楽しい。キャメロン・ジェイミーの作品はかなりお勧めだが、多分結構な時間並ぶことになると思うので、計画的にどうぞ。

2008年09月24日

横浜におけるHermann Nitsch

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2008年09月27日

横浜におけるJoan Jonas

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横浜におけるTony Conrad

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(註:トニコン作品の写真三枚は私の撮影ではなく、人からの貰いものです。)

2008年10月04日

シンポジウム「今、国際トリエンナーレとは」

シンポジウム「今、国際トリエンナーレとは」
日時:2008/10/14(火) 18:00
会場:愛知県芸術劇場小ホール
パネリスト:水沢勉, 北川フラム, 建畠哲

問合せ先:あいち国際芸術祭(仮称)実行委員会事務局 052-971-6111
料金:無料(申込不要)

これはまたタイムリーな企画。観に行きます。

2008年10月05日

「新日曜美術館」で横浜トリエンナーレ2008

「新日曜美術館」
10月5日(日)
NHK教育 9:00~10:00 (再放送)20:00~21:00

追記:
始まって、まずはスロビング・グリストルという表記に新鮮な感覚を受けた(笑)。やはりマシュー・バーニー、ヘルマン・ニッチのグロ系列作品は見事にスルーされたようである。観に行った時に行列で観られなかった勅使河原三郎のパフォーマンス映像を(少しだけだが)見られたのはよかった。そして中谷さんの霧の彫刻も大きく取り上げられていた(大阪万博のペプシ館の記録映像も初めて見た)。内藤礼の揺らめく糸の作品といい、(番組では取り上げられなかったけど)キャメロン・ジェイミーといい、三渓園は面白かったなと思い返す。あと、やっぱりと言うかミランダ・ジュライのセカイ系(?)作品も取り上げられていた。

追記2:
と思ったら、ネットでキャメロン・ジェイミーがトリエンナーレ出品を取りやめたと知る。観客は一人、もしくは二人で、真っ暗なお寺のなかにランタンを持って入り、内部を探索してゆくなかで、流木による偶像と不気味な絵を発見し、最後にあるものとの対面することで、文化的制度の構造に直面する(かもしれない)という素晴らしい作品であったのだが、勿体ない。

2008年11月10日

針生一郎講演「はみだした女たち」@豊田市美術館

2008/11/9
豊田市美術館

実は針生一郎その人を間近で見るのは初めて。私にとって針生一郎は、何といっても戦後の「美術批評」誌にて武井昭夫と交わした議論に象徴される、「政治と芸術の関係」を考える上で外せない極めて重要な人物である。

講演は開催中の「不協和音」展に出品している作家ついての話で、まず初めに彼女らが「女」「家庭」「結婚」「国」「ジャンル」といったものから、いかにしてはみだしてきたのか(=関係を組み替えてきたのか)について話した。そして続けて各作家とのエピソードについて話す、といったものであった。エピソードのほうはジョークを交えながらの単純に楽しめる内容であった。

これだけなら、まあ楽しい講演で終わったのだが、最後の質問の際に、針生の心に火がついた。質問の内容は失念したが、その質問に対する針生の回答は、各国のビエンナーレ、トリエンナーレについての見解から、針生の持つ政治性を強く感じさせる方向へと進んだ。まさに私が聞きたかったのは、針生のこういった側面である。関係の絶対性において文化を社会的に読むこと、すなわち文化を政治として把握すること。

私も質問してみたいことというか、ぶつけてみたい問いは山のようにあった。それは文化を政治として把握することと、芸術の自律性は対立しないのか。対立するとすれば、そのギャップは針生のなかでどのようにして埋められているのか(もしくは敢えてその矛盾を抱え込もうとしているのか)ということ。今の針生がこの辺りのことをどう考えているのか聞いてみたかった。いつか聞くことのできる機会があると願いたい。

2008年11月20日

オノ・ヨーコ レクチャー《Passages for Light/光の道》

ハマトリの最後を飾るは、オノ・ヨーコのレクチャー《Passages for Light/光の道》だそうです。

http://yokohamatriennale.jp/2008/ja/blog/2008/11/post-67.html

早速申し込んだ。抽選に当たったらもう一度横浜へいくつもりだ。単なるレクチャーではなくてハプニングの再演などの何かがあることを期待している。まあレクチャーでも別にいいのだが。

2008年12月01日

ハマトリ最終日

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ハマトリ最終日、オノ・ヨーコのレクチャー(当選しました)と、見逃したままだったH-BOXの映像作品を見倒すために再び横浜へ行ってきた。写真はフィナーレでの、大巻伸嗣の「Memorial Rebirth」。このフィナーレでは大巻伸嗣と、総合ディレクター水沢勉の短い挨拶もあった。
私は合計5回横浜を訪れた訳だが、はっきり言っておきたい。とても面白かった。素晴らしい展覧会であった。
多くのスタッフとボランティアがこの展覧会を愛していること、多くの観客がそれぞれ何かを求めてトリエンナーレ会場を訪れたこと。「芸術」というひどく曖昧で多義的な言葉を、我々は各人それぞれのやり方で共有することが出来たのではないか。
三年後、またここ来ることができればと思う。文化を共有していることを確認するために。

2008年12月02日

オノ・ヨーコ レクチャー《Passages for Light/光の道》@赤レンガ倉庫

2008/11/30
横浜 赤レンガ倉庫

横浜トリエンナーレ最終日、オノ・ヨーコのレクチャーに当選したので観に行ってきた。年の瀬も近づいてようやく運が向いてきたのか。今回のレクチャーには『光の道』というタイトルが付いていたのだが、結論から言うと、特にパフォーマンス含みという訳ではなかった。しかし単純にレクチャーという訳でもなかったのだが。
まず受付では『onochord』とポストカードが配られた。満員の会場に現れたオノ・ヨーコは、立ち振る舞いや観客の拍手などの反応から、やはり単なる現代美術作家以上のカリスマ性を持たされているというか、社会的にある概念の象徴として位置づけられているタイプの人物だなと思った。本人もその役割を引き受けようと自覚して振る舞っているように思う。
まずは近年の活動を紹介するDVDを皆で鑑賞。その後は観客と対話するように、かなり長い時間をとって質問を受けるという流れ。レクチャーというより、観客参加のトークと言えばいいのか。精神的な話や、パーソナルな話も多かったが、いくつか面白い話も聞けた。以下、走り書きのメモなので思い違いを含む可能性があることをことわったうえで、箇条書きにて記すと、
・セールスリストに「ライトハウス」のコンセプトが含まれていた。それを見たジョン・レノンに「これを作ってくれ」と言われたエピソードについて。
・自分はコンセプチュアルアーティストである。だから現実には出来ないようなことを考える。しかし何十年も経って、それは「イマジン・ピース・タワー」として実現した。
・「カットピース」を再演した理由について。
といった内容だった。
そしてトークを終えると、唐突に会場にアッパーなダンスミュージックが大音量で流れ出し、オノ・ヨーコは観客をステージにあげて一緒に踊りだす。そのまま拍手と歓声のなかレクチャーは終了。
見終わって分かったことは、このレクチャーのタイトルである「光の道」とは、象徴としての「イマジン・ピース・タワー」を広めようとする旅路、その象徴を媒介として「愛と平和」のメッセージを広めようとする旅路だったのだということ。

さて、私はオノ・ヨーコの「現実には出来ないようなことを考える」という旨の言葉を、大きな意味を持つものとして受け取った。50年代〜60年代のオノヨーコの作品は、ハードコアなコンセプチュアルアートばかりであった。何らかのメッセージを伝えることよりも、形式としてのコンセプチュアルアートを試すことが優先されていたように思える。そこではコンセプチュアルアートの形式を介して、人間の持っている想像力の広がりを試すことが意図されていた。まだ「愛と平和」だけではなかったのだ。しかし後年、人間の持つ想像力についての試みは「愛と平和」のメッセージと重ね合わされ、その意味合いを微妙に変化させてゆく。「愛と平和」というあまりに普遍的な概念を、人々の意識の中にイメージさせることが、主たる目的へと変化したのだと言える。それを批判することは簡単だ。しかし人々が意識のなかに得るであろう概念の方にこそ、作家が価値を認めたのだとすれば、それは文化の社会的装置としての役割を充分に果たしている。今回のレクチャーは、このようなことを考えるよい機会となった。

2009年06月17日

映像の起源・山中信夫

このようなイベントが明日行われるそうです。とても気になる内容だ。

60年代末〜70年代初頭、多くの美術家が映像(写真、フィルム、ビデオ)に取り組んだ。これは、もの派と概念派にまで突き詰められた、当時の日本の現代美術の状況において、制作を実践として捉え直す過程にて現れた動向であった。美共闘のメンバーであった山中信夫の写真の仕事は、そのなかでも特に重要なものであった。

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多摩美術大学・映像学環・公開特別講義
映像の起源・山中信夫

美術としての映像作品は、どのようにして始まったのか。カメラオブスクーラやピンホール写真など、映像の起源にこだわりつづけ、夭逝したアーティスト・山中信夫。38年前の伝説のデビュー作「川を写したフィルムを川に映す」を、当時と同じ場所で再現する。

6月18日(木)講義—午後6時〜7時半
        映写—午後8時〜8時半    
講義—多摩美術大学・上野毛キャンパス映像スタジオ(3号館1階)
東急大井町線上野毛駅から徒歩5分

映写—多摩川河原(講義の後に一緒に移動します)

講師 山本和弘(栃木県立美術館学芸員)
   三田晴夫(美術ジャーナリスト)

担当 堀浩哉 小泉俊己 栗原一成(絵画学科)
   港千尋 佐々木成明(情報デザイン学科)
   石井茂(映像演劇学科)
   神山亮子(府中市美術館)

この講義は学内他学科と学外の方々にも公開しますので、興味のある方はご自由にご参加ください。

2009年08月04日

マース・カニングハム死去

7月26日に、マース・カニングハムが亡くなったことを知る。
http://www.merce.org/

芸術が終って行くことに焦燥感を覚える。

R.I.P

2009年11月04日

ヨコハマ国際映像祭についての素朴な感想

先週末は風邪気味の状態のまま、横浜へ10時間かけて行き、10時間かけて帰ってきた訳だが、いくつか素朴な感想を。

フォーラムについてはマノヴィッチが講演したフォーラム3について、後ほど(爆音と日仏学院ドゥボール特集についてレヴューした後で)いろいろと述べたいと思う。ひとつは北野圭介氏の講演のなかでの、実験映画の歴史に対する明白な誤謬について。
もうひとつは、マノヴィッチの統計的手法が芸術工学とか感性工学とか、その方面で散見されるタイプの研究と重なって見えて、疑問をもったことについて。
基調講演とフォーラム1については、多分別のところでレヴューします。

展示は駆け足でしか観られなかったので、改めて観に行く機会を設けたいと思うが、全体としては現代美術の領域により過ぎている気がした。それがいけないという訳ではないが、その一方で東京藝大馬車道校舎での上映プログラムが、やや魅力に欠けているように思えた。もっと現代美術寄りの劇映画や、実験映画/ビデオアートなどが取り上げられるかと想像していたのだが、上映プログラムの作品のリストを見る限り、映画・映像の歴史性や多様性に対する意識をもって編まれたプログラムではなかったのかもしれない。
(ただし正直に述べておくと、私はタイミングが合わなかったため、馬車道校舎での上映は何ひとつ観ることが出来ていない。なので、上記は全て私の偏見かもしれないことを言い添えておきたい。それにしてもタイミングが合えばいくつかは観たいと思っていたのだが、何故、土日祝日しか上映を行なわないのだろう。藝大側の都合だろうか。)

BankARTの展示は、作品内容はさておき、1Fを大きく使用したクリスチャン・マークレーの好待遇が不思議だった(そんなに重要な作品だとも思えないのだが)。お目当てであったマイケル・スノウも、数年前にイメフォで既に上映済みの「リヴィングルーム」と新作の小品のみで、良かったのだけど、どうにも物足りない。代わりにアルフレッド・ジャーのインスタレーション作品「サウンド・オブ・サイレンス」が強烈に印象深かった。これは観ることが出来て良かったと思う。

あとは、付随する大きな出来事として藤幡正樹の行動について(http://www.art-it.asia/u/ab_fujihatam/z7Vx65kGLhZrYbT2f1AM/)。公のレベルで、あるいは個人のレベルで、ディレクターとの間にどのような齟齬があったのかについては全く関心がない。そんなものは部外者には関係がない。しかし、ここから社会的な装置としてのフェスティバルの役割について、前向きな議論が行なわれるのであれば今後も注目したい。声明文を読んでも、現段階では問題点がいくつか混同されているような気がするので、このくらいのことしか言えない。


追記(2009/11/5 16:00):
この藤幡正樹の出品辞退の問題について、ディレクターである住友文彦のコメントが配信された(http://www.stickam.jp/video/179438051)。映像を観ながら、簡単にまとめてみた(下記は私のバイアスがかかっていることに注意して、出来ればリンク映像そのものを観て下さい)。

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・立場としては、行政の人間を含めた実行委員会から、ディレクターの業務を任命されているということ。
・今回のディレクターの業務が、キュレーションだけでなく、マネージメントにも一部関わるものであったこと。
・予算が約2億であること。5500万がキュレーションチーム(作家の制作費など)、3500万が会場施行費、9000万が事業費(これは、人件費等を除くと6500万)である。予算的には大きいものではなかったということ。
・そのために、外部の経験豊富な業者に委託するのではなく、若いスタッフ中心のアドミニストレーションになったということ。そのために経験不足な部分があったことは認める(しかし、それによるプラス面もあった)。また、展示レイアウトの変更に不具合があった部分は認める。それらの要因から、作家との間の信頼関係を結ぶことが出来なかったのであれば残念である。
・ボランティア(サポートクルー)について。市民ボランティアが参加するということは、市民と行政の捉え方において、違いがある。そのため、個人のレベルでは、それに見合った見返りを得ていないという意見もあるかと思う。
・フェスティバルは展覧会と違って、そこに広がりが求められる。よって内容的に総花的なものにならざるを得ない。しかし「いま世界では、こんな作品があるんですよ」という、啓蒙的なものにはしたくなかった。この展覧会で観客がいろいろな映像の使い方を知って、自分たちで声を上げることを期待する。それはラボスペースにおける市民の映像発信の取り組みにも現れている。
・コンセプトについて。映像はジャンルではなく道具であると考える。ジャンルであれば歴史的なコンテクストは重要視されるが、このフェスティバルでは道具(映像)をどう使うかという点を重要視している。現在、さまざまなジャンルにおいて映像は横断的に使用されている。このフェスティバルも横断性を掲げている。しかしこのフェスティバルは、多くのジャンルを並べることで、映画や美術の制度の問題を重視したかった訳ではない。そうではなく、作り手自身のなかで、映像で何が出来るのだろうかという創造的な意識(DEEP IMAGES)が、ジャンルに関係なく立ち上がってくるような、そんなフェスティバルを目指した。確かに映像は表層、フレームのなかにしか存在しない。しかし映像はその外側(社会性)と関係を持っている。ラボスペースでの活動がそのような社会的な深さを持ったものになることを希望する。
・今後もこの問題についてはトークの場を設けて、話し合って行きたい。

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こうして見てみて、「ラボスペースにそんな重要なコンセプトが込められていたのか」という感想をまず持った。成る程、このコンセプトには概ね同意できるし、今日において有効性のあるものだと思う。ただし、ラボスペースを含め、フェスティバルが狙い通りの社会的機能を果たすかどうかは、会期中に試される課題だろう。そして、このコンセプトの社会的な深さの部分に、藤幡正樹がマッチングしなかったことが、すべての原因であったということなのだろうと思う。これについてはリンク先の声明文の1(http://www.art-it.asia/u/ab_fujihatam/z7Vx65kGLhZrYbT2f1AM/)を参照のこと。ここで使われている「コンテクスト」という言葉は、単に展示場所の問題ではない意味を、図らずも含んでいるように思う。私はそこに、両者のすれ違いを感じ取った。

内部の運営的な部分での齟齬については本当にどうでもいい。結局、予算規模の話になってしまう。

2010年01月13日

「Beuys in Japan:ボイスがいた8日間」を観て

「Beuys in Japan:ボイスがいた8日間」を観に水戸へ行く。「貨幣」をめぐるボイスの言説にうんうんと頷きながら記録映像を観る。特に芸大での対話集会の映像はとても興味深かった。ポストモダンの潮流のなかで消費社会へと向かう時代でありながら、左翼的空気感で満たされた集会の空間。いろいろと当時に対する認識を改めさせられた。この対話集会と草月コンサート後の質疑等は、是非ともテキスト化して出版してほしい。現在に対して極めて有効性を持った言説であると思う。(追記:芸大での対話集会については「アールヴィヴァン 14号 特集:ボイス1984.5.29-6.5」, pp.21-32 に収録されている。ただし、学生の質問部分は簡素な形にカットされている。)

また針生一郎のインタビュー映像も、対話集会のなかでのボイスの針生に対するコメントと照らし合わせてみると興味深いものだった。針生は芸術と政治を区別しつつ対応させるが、ボイスは究極的にはそれらを同一視していた。これは針生のある時期の政治への深いコミットを踏まえて把握するならば、簡単には片付けられない問題を孕んでくる。芸術と政治(あるいは社会)の関係が、平板な把握でストリートに回収されることなく思考され続けるためには、例えばこのような差異に着目しなければならないはずだ。

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