メイン

Live Archive

2007年02月17日

Tony Conrad @ 京都 磔磔

Tony Conrad+Alexandria Gelencser, 山本精一+津山篤ユニット
1998/6/10
京都 磔磔

かなり記憶が曖昧な昔のライブである。このライブと前後して、飯村隆彦, Tony Conradの実験映画上映を西部講堂に観に行った記憶もある。その時は自分がここまで実験映画に深入りすることになろうとは思ってもいなかったが。

山本精一+津山篤ユニット:
山本精一と津山篤らによるユニットがオープニングアクト。メンバーはこの二人がギター(ベースだったかも)。そして外国人メンバーが二人加わる。一人はエレクトロニクス・ノイズで机の上にはエフェクター類。もう一人はドラム。こう書くと一見バンドっぽく、いかにも想い出波止場的な音楽が想像されるかもしれない。しかしこの日、ここで演奏された音楽はOff Site〜Erstwhile系の静寂の即興演奏を先取りするものだった。まず山本氏と津山氏のどちらか一人が不定形なフレーズを爪弾く。それは静寂のなかから浮かび上がり明確な形態を取ろうとするが、それは常にもう一人によって崩され、静寂の中に戻る。エレクトロニクスによるノイズ演奏は、LopezやGunterのような微弱音ノイズ。ドラムもAMMのPrevostのようにドラムの表面を擦る微弱音のみで一度もリズムなど叩かない。最初から最後までほとんど音がなく、静寂と無音が場を支配する。静寂系インプロも後年いろいろ観たが、やはりこの日の四人の演奏は素晴らしかったと思う。

Tony Conrad+Alexandria Gelencser:
明滅のみから成るフィルム作品「Flicker」で知られる著名な実験映像作家にして、永久音楽劇場に加わったドローン・ミニマリストでもあり、FAUSTともコラボでタメを張り、ヴェルヴェッツ前身バンドの一員でもあったという凄すぎる経歴の持ち主であるConrad。私にとっては雲上の人。興奮を押さえながら、準備にかかるスタッフの様子をぼんやり眺める。すると、なんと天井から床までステージを遮断するように大きな白い布が貼られてしまった。そして照明によって二人のシルエットが布に投影される。どこか彼の映像作品が連想される。演奏の方はというと、言うまでもなく電気ヴァイオリンと電気チェロによる徹底したドローンミニマル。分厚く軋む倍音の快楽に意識が混濁。ただその豊穣な音のテクスチャーと向かい合う。いわゆる反復によるミニマルミュージックは本質的にミニマルアート(リテラリズム)とは別物である。持続によるミニマルミュージックこそがこの問題に関わると確信。何とも凄まじく高純度な音楽ばかりの一夜だった。

Merce Cunningham舞踏団 @ 京都 京都会館ホール

小杉武久, Jim O'rourke, Stuart Dempster
1998/?/?
京都 京都会館ホール

Jim O'rourkeの演奏を初めて観たのは98年、Merce Cunningham舞踏団の来日公演だった。Merce Cunningham舞踏団といえばCageにTudorだが、この二人亡き後は小杉武久氏が音楽監督を務めている。前売りを買っていなかったので、ホール入り口で当日券を購入。A席は残っておらずS席のみ売れ残っていた。そんなものか、と思って少々サイフに痛いS席を購入。会場に入るとなんと最前列。オーケストラピットの真ん前。ダンスより音楽目当ての私としては結果的にベストな環境。ステージには目もくれず、間近で演奏を観ることができた。

小杉武久+Jim O'rourke:
最初の演目でO'rourkeは小杉氏と一緒にCageの「Four 6」を演奏。MDやPowerBookから既成曲のサンプルの断片を(適当に)流していた。このセンスはポップといえばポップだが…。小杉氏の音具による物音とのミスマッチさ加減がなかなか凄かった。音源は指定されないが、音の種類数とタイミングが細かく指定されたこの曲。このようなミスマッチさこそ音楽監督である小杉氏の意図であったのかもしれない。

Stuart Dempster:
次の演目でのStuart Dempsterの演奏は完全に忘却してしまった。アンビエントな残響ものだった気がする。

Jim O'rourke:
最後の演目ではDavid Tudorの「Untitled」をO'rourkeがミキシング。これだけは今も強烈に憶えている。O'rourkeは巨大な卓の前に立ち、ポケットからタバコや小銭を取り出して几帳面に脇に揃えて置く(笑)。身軽になって、軽くジャンプしながらスタンバイ。舞台でダンスがスタートすると、O'rourkeも激しく卓を操作し、目紛しい速度でTudorの音源をミキシングする。重層的な熱帯雨林ノイズの奔流が会場を満たす。ノイズから独立したダンス。ダンスから独立したノイズ。とんでもなく過剰なキリモミ状の電子音の渦に、解れ合い断片化する身体の動きが重なる。ダンスには大して関心のない私だが、この整合性から徹底して離れる断片的な全体はとても面白かった。

AMM @ 近江八幡 酒游館

AMM
2000/9/29
近江八幡 酒游館

この数年前にも来日していたAMM。前回は観に行けなかったので、喜び勇んで近江八幡へ足を運んだ。この酒游館は近江八幡の落ち着いた古い町並みのなかにひっそりと存在する、酒蔵を改造したライブスペース。オーナーの趣味でPSF系の渋い音楽のライブを定期的に行っていて、しかもここで作っている日本酒が飲み放題という、あり得ないような心地よい空間。客は多いとはいえなかったが、これくらいの方が観る方には良い。客の多さと音楽の質は関係がない。

会場はPAがないので、Keith Roweのギターアンプ以外の音は全て生音。向かって中央はドラムや様々なジャンクに囲まれたEddie Prevost。右にはKeith Rowe。彼のギターは解剖作業のようにテーブルに寝かされており、その周囲にはラジオや音具が散乱している。左のピアノの前にはJohn Tilburyが座る。夢のような光景だ。静かな町なので、演奏していないときは本当に引き込まれそうな静けさとなる。その静寂の中からPrevostのパーカッションの弓による摩擦音(当然リズムは叩いたりしない)と、Roweの(既にギターとはかけ離れた羽虫のような)電子ノイズとラジオが、相反しながらゆっくりと立ち現れる。そしてこの両者の音を結びつけるかのように、Tilburyが点描的なピアノを弾く。この三人の中では最も音楽らしい要素を持つTilburyのピアノであるが、ライブにおいてこれほど全体の流れを司っているとは思わなかった。繊細で豊穣な演奏。最後は全員が手を止め、静寂がしばらく続く。静寂を多く含んだ隙間の多い演奏にずっと耳を集中していたので、細やかな静寂の中の微細音に耳が敏感になっていることに気付かされる。PAなしの、こんなに静かな環境でAMMの演奏を聴けたことは、とても幸運な出来事だったと思う。

SLOGUN @ 京都 Cafe Indepandants

SLOGUN, SICKNESS, CONTROL, BASTARD NOISE, DOOG
2003/12/16
京都 Cafe Indepandants

会場へ向かう途中、道端でばったり知人と遭遇。しばし話し込んでしまう。そのような訳で開演時間から少し遅れて会場に入ると、前バンドの演奏が終わったところのようだ。で、SICKNESSがセッティング中。机の上には多数のエフェクター等の機材が散乱している。そうして私のノイズへの価値観を大きく変えた夜が始まった。

SICKNESS:
SICKNESSのライブは正統派ハーシュというべきバキバキの機材との格闘であった。マイクが取り付けられた鉄板を手に激しいアクション。そして机の上に乗り、機材を乱暴に踏み付けながら暴風雨のようなハーシュノイズをぶちまける。10分程で全てを出し切り終了。演出とは無縁のストレートなノイズ精神。素晴らしい密度と勢い。ここまで豪速球でハーシュなライブは久しぶりに観た気がする。

CONTROL:
耳飾りとタトゥーという風貌の若者。何やらノートを見ながら大量の機材を机上と床に几帳面に並べていたのが印象的。そのライブは暴力的なパワエレスタイルでありながら、インダストリアルな感じもある構築的な格好良さ。作り込まれたサウンドをバックに、前方に立っていた観客と鼻頭の触れあう距離で叫ぶその姿には、何だかハードコアパンクのような空気も感じた。

BASTARD NOISE:
BASTARD NOISEはこのメンツの中では異色な音を聴かせた。Eric Wood急病の為、Bill Nelson1人という編成である。彼は前回のBN来日時は来てなかったと思う。奇妙な巡り合わせだ。巨大な自作アナログシンセから発される電子音と、スプリングと小さな円盤状のパーツが組み合わされた自作ジャンク楽器による金属系摩擦音が絡み合う神経衰弱的実験音響ノイズ。自作ジャンク楽器をゆっくりと回転させ、重厚なドローンを奏でる。観客も座り込み瞑想。巷の音響派など相手にならない完璧なまでの音響ノイズ。Ericがいないのは非常に残念だったが、これはこれで予想以上の収穫。

SLOGUN:
John Balistreriとバックを務めるはNOIZGUILDの面々。そこへさらにSICKNESSのChrisがサポートとして加わる。机の上にはシンセやエフェクター類。 NOIZGUILDの2人とSICKNESSは忙しそうにケーブルを繋ぎ替えてセッティングをしている。会場の照明が全て上げられる。これがSLOGUN のスタイルのようだ。まだセッティング中かと思いきや、Johnがぶっきらぼうな挨拶とともにマイクスタンドを地面に叩き付け、それを合図に直線的にひたすら疾走するハーシュノイズが解き放たれる。Johnは観客を睨み付けて吠える。さらにSICKNESSもマイクを手に前方にやってきて叫ぶ。暴走するノイズと2人の男の凶暴なアジのコンビネーション。そして、それに一歩も引かず睨み返し対峙する客。痛い程の緊張感が場を支配し、殺伐とした空気が流れる。彼らは声と溶け合った暴風雨のようなノイズへ向けて、シンボル化された暴力の概念を一点に集中させる。時間にして30分程だったと思うのだが、一瞬も隙を見せることのない張り詰めた真剣さ。個人的にノイズの価値観を大きく揺さぶられたライブであり、今も忘れられない。

WHITEHOUSE @ 京都 Cafe Indepandants

WHITEHOUSE, CONSUMER ELECTRONICS, AUBE, DOOG
2004/2/22
京都 Cafe Indepandants

レコ屋を巡回してからアンパンへ。客入りは大盛況。ステージには2つの台座がセットされており一方にはノートパソコンが、もう一方にはBossのサンプラーが乗っている。これがWHITEHOUSEの機材の全て。何ともシンプルなセッティング。

CONSUMER ELECTRONICS:
CONSUMER ELECTRONICSとしてのPhilip Bestのステージ。おもむろに登場したBestはノートパソコンの前に立ち、ややデジタル風味のストレートなノイズを出す。しばらくしてノイズを吐き出し続ける機材から離れ、今度はマイクに向かって何やら冊子を読み上げて(?)叫ぶ。畳み掛けるように繰り返されるヒステリックなアジとノイズの絡みは派手さはないが実に渋い。なんだかあっさり終了。

AUBE:
続いて机と椅子が運び込まれる。机上にはノートパソコンやエフェクター類。椅子に腰掛けた中嶋氏は、ディレイを多用したエコーまみれのスぺーシーな電子音をじっくりと演奏。その起伏のある展開はノイズというよりもはやプログレ。後期MBが宇宙空間を漂うかのごとし。眼を閉じて聴き入った。

WHITEHOUSE:
そしてメインのWHITEHOUSEな訳だが、なかなか始まらない…。何故かBGMとして流されていたライヒのCDも終わるくらい待たされる。ようやく登場したステージ上のWilliam Bennettはサングラスに紳士然とした白シャツと黒いコート。Bestも赤シャツにわざわざ着替えてやっぱりサングラス。Bennettはマイクのシールド(やけに長い)を首に巻き付けながら客を煽る。スタイリッシュな風貌にケレン味たっぷりのパフォーマンス。何かヤバいものを期待していた人は幻滅したかもしれないが。2人が交互に取るアジは下ネタ連発。バックではシンプルなノイズがぐにゃぐにゃとうねる。そうしてアジとアクションでテンションを上げておいて、いきなりブリブリと唸る低音で落とす。これはあの大音量で体験すると凄まじく煽動的。もう客は拳を突き上げ大盛り上がり、大暴れ。WHITEHOUSEはそのような意味でパンク。ただしそれはどこか洗練されている。中盤は一転し、キリキリと責め立てる彼ららしい高周波ノイズにぼそぼそと呟くヴォイス、そしてインダストリアルなリズムをバックに政治演説のような力強いアジを交互に取って観客を落とし込む。音的にはシンプルなのだが、それ故に迫力がある。そこから再び狂躁的なノイズとアジテーションの世界へ回帰する。変態的な声で喚き散らし、ひたすら加速と上昇を続け、最後は上半身裸で抱き合って万歳フィナーレ。まるでロックスターのようだ。何故、○○○○だとか、○○○だとか叫ぶような下品で野卑な雑音がこんなにもすがすがしいのか。変態性が突き抜けた先は5月の青空のような世界だった。ノイズを聴いていて良かった。こちらも万歳をしたい気分だ。

Norbert Moslang+Gunter Mueller @ 名古屋 K.D. JAPON

Norbert Moslang+Gunter Mueller, Kuwayama-Kijima, 古橋栄二, Lethe
2004/4/20
名古屋 K.D. JAPON

初めて行った高架線下のK.D. JAPON。たまに上から電車の音が聴こえる…。この日のイベントは前半にパフォーマンス系、後半に演奏系という順番の模様。まずは桑山氏による Letheのサウンドアート・パフォーマンス。四つの鉄板が並べられ、その上にドライアイスを置いてゆく。その振動音は増幅されて空間を満たす。これが TNBの最良の瞬間ともいうべき、澄んだ金切り音ノイズで非常に美しい。一つ乗せてはしばらく聴き入り、下ろす。それを四回繰り返す。次は一度乗せたドライアイスをそのままにして、次のドライアイスを乗せるという展開。金切り音は重層的な音塊となり、あり得ない程の美しさを放つ。作家による作為性が希薄なところも良い。続いての古橋氏はダンスパフォーマンスであった。

Kuwayama-Kijima:
チェロとヴァイオリンによるデュオ演奏。一見即興かと思いきや、作曲されている模様。弦の軋み、揺れる弱音、微細な音の間を聴取させる演奏で、もっと良い場所で聴きたい内容だった。GunterのレーベルからCDが出ているのも頷ける。

Norbert Moslang+Gunter Mueller:
VOICE CRACKの片割れNorbert Moslangと、NACHTLUFTのGunter Muellerのデュオ演奏。共にフリージャズから出発しながら、ノイズ性を取り込んだ奇怪な即興演奏に至ったベテラン同士。使用楽器はMoslangは勿論エブリデイ・クラックド・エレクトロニクス(チカチカ光る発光体、それを拾って音に変換する機器、ラジオ等々)。Muellerはパーカッションではなくi-podとエフェクターであった。私は感情や反応や手癖が音を左右する類いの即興に対してそれほど興味がない。そんな中で例外的に私が面白く感じるのはVOICE CRACKやBORBETOMAGUSのような、ある意味ノイズシーンに片足を突っ込んだ即興演奏グループの存在である。即興音楽もノイズも出音には近いものがあるが、根本的に全く別種の音楽であると思う。その違いとは、即興音楽が「どのようになるか分からない」という理念を(予定調和に陥いる危険を孕みながら)掲げているのに対し、ノイズは「どのようなるのかは(ほぼ)見当がつく」ことにある。ノイズは意図された音のデザインであり、本質的にコンポジションに帰属する。適当な垂れ流しに思えても結果としての出音の傾向はある程度意図されているのだ。VOICE CRACKもBORBETOMAGUSも最終的な音は記名性が高く、一聴すれば立ち所に彼等の演奏であると分かる。さてそのVOICE CRACKの片割れであったMoslang、そして今回の相方であるMuellerの演奏はMoslangのサウンドカラーが強烈で、それ故にデュオは即興演奏的傾向が弱まっていたところが気に入った。彼のプリミティヴなエレクトロニクスの放つ金切り電子音はいかにも彼らしい軋む機械の悲鳴。反対にMuellerは即興演奏家らしくフレキシブルに対応し展開をまとめあげるポジションにいた。二人の初老の男性がにこやかに目配せしながら淡々と即興演奏する様は微笑ましい。デュオの後、インターバルを置いて桑山氏を加えてトリオでのセッションも行なわれた。会場のアットホームな雰囲気も含め、しみじみと聴き入れる良いライブだった。

帝都潜入 @ 渋谷 O-NEST

BRIGHTER DEATH NOW, GREY WOLVES, PROIEKT HAT
2004/6/26
渋谷 O-NEST

気合いを入れて開場以前に到着。物販目当てだったのだが、レア盤を貪る修羅の群れを目の当たりにすることに…。BDNの見たことのない 7EP,1890,Split CDなどをなんとか購入。客の中には年輩ノイズマニア、秋葉系、HxCx、ブラックメタラー等々の濃い面々も。

PROIEKT HAT:
机の上には複数のカセットプレイヤー、エフェクター、ミキサーが並ぶ。そこへ登場したPHは寡黙な印象の細身の青年。カセットテープによる不明瞭な腐敗したノイズループが幾重にも重ねられ、陰鬱で重苦しいノイズ音の層となる。内向的な鋭さを秘めた渋いライブ。背後ではスライドによるモノクロームの不明瞭なイメージが連続投影されていた(スライド機材の不調というトラブルがあったのが残念)。PHはしょっちゅう不要な音源カセットを客に向かって放り投げるのだが、マニアな客がそれを嬉しそうに拾っていたのが可笑しい。

GREY WOLVES:
坊主頭で戦闘服に身を包んだ灰色狼ことTrevor Ward。今回のライブはGENOCIDE ORGANのW.Herichもサポートで参加するという混成部隊。Trevorは前方でアジテーション、W.Herichは後方で機材を操作。インプロノイズではなく曲として、ストイックで怒りに満ちた攻撃的なノイズが疾走する。Trevorはステージと客席を行き交いながら激しく客を挑発。明らかにパンク的なノリを客に要求。客にマイクを向け叫ばせる。そして何故か菓子を配り歩く(笑)。それに応じて始めは大人しかった客も徐々に暴れだし、ステージ前方ではしょっちゅうぶつかり合いやら諍いが起きていた。殺伐とした空気。過剰さはさらに度合いを増し、混乱と猥雑さを纏い込みながら走り続ける。背後ではいかにも GREY WOLVESらしい古臭いポルノや、ゲリラ兵のイメージがスライドで連続投影される。ラストではW.Herichも前方に出てきてアジテーション。 GREY WOLVES特有の腐食した猥雑な持ち味に、GENOCIDE ORGANの重厚さが加味された素晴らしい内容。そこにはマーシャル・パワーエレクトロニクスに求められるものが全て存在していた。完璧。

BRIGHTER DEATH NOW:
問題の衝撃的パフォーマンス。抽象的なイメージのビデオが背後に投影され、シンボルマークのフラッグがステージを飾る。Roger Karmanikは前方でマイクを握り、PHはサポートとして黙々とサウンドを担当していた(機材はPHのステージの時のもの)。ところがKarmanikは酔っていて愛嬌のある笑顔で叫び、ふらふらとステージと客席を徘徊し、寝転がったり、客とふざけ合ったり、謎のポーズを決めたり、電源を抜いてしまいサウンドを止めたりという、まるで居酒屋での二次会状態。しかしながらバックのサウンドは滅茶苦茶格好良い重厚なデス・インダストリアルであり、まさしくBDNだった。そのことからKarmanikはこの状況を狙ってやっているのではないかと深読みすることが出来る。乾いた笑顔と陽気さの奥底に潜む虚無。理解していただけるだろうか、この感覚が。過去の海外でのライブ写真でもこの日のライブの有り様を思わせるものがあった。これこそBDN流のプレゼンテーションであり、曝け出された虚無なのではないか?。エンディングで妙に軽快な BGMが流れた時に感じた強烈な違和感。その時、私は勝手にそう確信した。レコードから受ける押し潰されそうな重厚な印象とは180度違う。底抜けに愉快で、そして奥深い。

Karlheinz Stockhausen @ 天王洲 ART SPHERE

Karlheinz Stockhausen, Suzanne Stephens, Kathinka Pasveer, Hubert Mayer, Marco Blaauw, Antonio Perez Abellan
2005/06/24
天王洲 ART SPHERE

仕事をギリギリに切り上げ新幹線に飛び乗り、開演直前に何とか会場に到着。もともと時間にルーズな性格だが、今回ばかりはダメかと思った。クロークで荷物を預けて席へ急ぐ。場内はほぼ満員で、その客席中央に設えられたコンソール席に御大が鎮座している。なんといっても客が若い。バンドもののTシャツを着た奴や、レコ屋のビニール袋を下げた奴までおり、明らかにクラシックのルートじゃない客層が目立つ(自分を含む)。

そうこうしているうちに「リヒト・ビルダー」開演。モンドSF映画にでも登場しそうなオレンジ、緑、紫、青緑の奇天烈な衣装に身を包んだ4人の演奏者が登場。楽器はフルート、トランペット、バセットホルン、そしてテノール。舞台袖のカーテンの隙間にシンセ担当の演奏者もいる。楽器にはマイクが付けられ、これをシンセ担当者がリング変調していたのだと思う。Stockhausenはたまにコンソールをちょっと触るくらいだったらしい。それぞれの曜日にパート分けされた楽曲は音の響きを重視した印象で調性や展開の中心もなく、断片的に漂う感じ。単語の羅列に導かれて緻密な演奏(特殊奏法や舌打ちなども)が身振りを伴って演じられる。それら楽器音にひっそりと寄り添う電子音は、とても控えめでありながら絶妙に良い。分かり易い刺激がある訳ではないけど、ぼんやり眺めていると心地よい。40分もある譜面を暗記し演奏し切った演奏者のスキルには脱帽。

休憩を挟むということで、ロビーにて茶を飲む。席に戻るとステージ上には一つのライトが正面の壁に投影され、小さな白い円を形作っている。ステージ上には何もなし。シュトックハウゼンはコンソール席でサウンドプロジェクションを行う。いわゆる電子音楽のテープ上演のスタイル。

そのまま照明が落ちてスタート(ちなみに照明もStockhausenが操作)。場内は暗闇となり、舞台の壁のライトに意識を向けるか、目を閉じるかしかない。変調された少年の声と電子音の「少年の歌」。変調された音源と電子音と打撃音が攻撃的な「テレムジーク」。大音量でちゃんとした設備で聴くと、ホールの響きもあって、当たり前なんだけど結構印象が違う。新鮮な驚きというよりも、再発見があったと言うべきか。この前衛華やかなりし時代の尖った空気にうっとりする。それに比較すると、やっぱり近年の曲は丸くなったと思えた。終演後も拍手は鳴り止まず、Stockhausenは何度も壇上に上がり観客に応えていた。

Karlheinz Stockhausen @ 天王洲 ART SPHERE

Karlheinz Stockhausen, Suzanne Stephens, Kathinka Pasveer, Hubert Mayer, Marco Blaauw, Antonio Perez Abellan
2005/06/25
天王洲 ART SPHERE

昼に宿を出て、まず初台へ向かう。ICCとギャラリーを廻ってから、いくつかの店でCDとDVDを購入。いろいろ悩んで買い物をしていると遅くなり、結局昨日と同じ開演ギリギリになんとか滑り込み。この性格は直らん。この日は昨日よりもさらに客が多い。やはりStockhausenは客席中央のコンソール席に座って、開始の時を待っている。Stockhausenにも観客にも昨日より張りつめた緊張感があった。

まずは「リヒト・ビルダー」。初日よりも小気味よく演奏が進んだように思う。昨日は衣装と身振りの奇天烈さに惑わされた感もあったが、もう慣れた。明確な中心がある訳じゃない、どこで始まってどこで終わってもいい、断片的な全体を持つ曲なので、音色の多彩さに集中する。やけに時間が短く感じた。

休憩時間を挟んで「コンタクテ」のテープ上演。昨日と同じく照明が落とされ、ステージ正面の壁にライトの光が一つだけ投影される。やはり演奏者なしの電子音のみのバージョンだった。強烈に吹き荒れる電子音に圧倒される。今日は壁のライトは見ないで、天井を仰ぎながら鑑賞。よくよく考えると、これだけの大人数が、こんな上品なホールで、暗闇の中でじっと座って、こんな過激な電子音楽に聴き入っているのは凄い状況だ。こんな光景が当たり前になるくらい現音のコンサートが増えてほしいもの。

終演後の拍手は三日間の中で最も大きく、長かった。若い非クラシック系の客層のせいもあって、ほとんどバンドのライブ後みたいな盛り上がり。クラシックの世界ではいまいち待遇の悪い「コンタクテ」のようなバリバリの前衛も(前衛といっても、もう半世紀近く前の作品なのだが…)、聴くべき観客が聴けばこれだけ喝采されるのだ。

Karlheinz Stockhausen @ 天王洲 ART SPHERE

Karlheinz Stockhausen, Suzanne Stephens, Kathinka Pasveer, Hubert Mayer, Marco Blaauw, Antonio Perez Abellan
2005/06/26
天王洲 ART SPHERE

人間余裕が大事だという訳で、今日こそは余裕を持ってまっすぐ会場へ向かう。今日もほぼ満席だが、昨日よりも若干客が少ない気がする。今日の座席はStockhausenの座るコンソール席のすぐ後ろという、ある意味ベストな位置。ステージよりStockhausenの挙動を注視した。

まずは、かなり馴染んできた「リヒト・ビルダー」。この日の演奏はやや長く感じた。また、席の関係からか電子音が比較的良く聴こえた。演奏の最中、Stockhausenは譜面をめくりながら演奏を追う。その手元までは見えなかったが、あまりコンソールの操作は行っていなかったように思う。

休憩中は職場の上司と遭遇し、しばし感想を述べ合う。この方はドイツ語が出来る人なので、リアルタイムで言葉の意味が理解できるのが羨ましい。物販も覗くと、スコアは売り切れ、CDは輸入盤店価格に合わせたのか、少し高めだった。他に欲しいものもあるので。また直接Stockhausenのレーベルに注文すればいいかと思い、この日は何も購入せず。

そしていよいよ最後の演目「天使=行列」。電子音楽作品ではないが、今回はテープ上演形式。例によって暗闇の中、壁にライトの光が一つだけ投影される。私はStockhausenの傍らのレコーダーのレベル表示を見ながら聴くことにした。客席にてコーラス隊が歌うというこの作品。しかしながら一度録音、ミックスされて、このような形で聴かされると、彼の他の電子音楽作品と通じるものがあると感じた。むしろStockhausenらしさがよく分かる。電子音楽も合唱も彼の中では同じなのだ(当たり前か)。ある日本人作曲家はオーケストラ作品の作曲であっても、周波数とその配置によって、全体から細部に至るまでを構想し、それを五線譜に置き換えることで作曲を行うと聞いたことがあるが、要するにそういう感覚。電子音楽もやっている作曲家って皆そうなんだろうか?。奇怪な歌い方も用いた合唱なのだが、多くの場面で小さな音量のドローンのような薄い声の膜が配置されており、もの凄い緊張感。聴いているとどんどん集中力が上がってのめり込んでゆく。Stockhausenは全然丸くなんてなっていない。過去の過激な電子音楽をやってた頃のままだと思い知らされた。

この日も拍手は鳴り止まず、Stockhausenは観客の喝采に応える。その後はやはり毎度のサイン会状態に。恐ろしい人数の行列だったが、Stockhausenは紳士的に一人一人に丁寧に対応していた。

帝都掃討 @ 高円寺 20000V

OPERATION CLEANSWEEP, ANENZEPHALIA, INADE, MONTAGE, NOISEUSE
2006/3/21
高円寺 20000V

相変わらず幅広すぎる客層に目眩…何故この人がパワエレを、という感じの人も多い。物販にて来日記念盤、AnenzephaliaのCD-R、謎のコンピを一枚購入。この日のライブはハーシュから構成へと一歩踏み出した感じのあるMONTAGEとNOISEUSEの好サポートでスタート。両者ともライブを観るのは初めてだったが、自分の中ではかなり高評価だった。

ANENZEPHALIA:
暴力性より重厚さを押し出した展開で来たGO別働隊ANENZEPHALIA。彼らは礼儀正しいパワエレというか、客に絡んだり、ぐしゃぐしゃに暴れたりはしない。B.mが主にアジテーション、W.hがシンセやエフェクター等機材操作という分担。後方では不明瞭な映像が流されている。ちゃんとは聞き取れなかったが、政治的引用バリバリのコラージュとともに、デス・インダストリアルは駆動する。重い駆動音は崩壊へ向かう事なく、ひたすら聴く者を圧殺するかのごとし。シンプルなキックが刻まれるラスト曲ではB.mはフロアに降り、観客の中でアジテーションを連呼する。期待通りの手堅いステージだった。(終演後、W.hとトイレ前ではち合わせ、握手を交わしたのですが、ステージ上の強面とは違う、柔和な、しかし高潔な精神を感じさせる笑顔が印象的だった。)

INADE:
オーディオによる神話。INADEはコズミックかつリチュアルな音像を聴かせた。メンバー二人はパソコンやエレクトロニクス類に加え、謎のラッパ状の民族楽器も使用。砂塵のようなノイズの中、各種のリチュアル音像が浮かび上がる。比較的リズムもあり、EX.ORDERでの政治的パワエレとはまた違う、独自の音世界を繰り広げた。後方には手の込んだ、ジャケットイメージの映像が流されていた。

OPERATION CLEANSWEEP:
トリはOPERATION CLEANSWEEP。メンバーは二人組のスキンヘッド。一人が主にアジテーション(ボイスはノイズと判別し難い程、めちゃくちゃに変調される)、もう一人が機材担当(ノイズの展開は緻密に曲として作り込まれていた)。 ANENZEPHALIAと同じ編成。準備に手間取り、機材トラブルでメンバーが怒る一幕もあったが、なんとか開演。攻撃的なバンド名そのままの鋭利な感触で脈動するノイズと、パンクス丸出しのフロントマンによるアジが絡み合う。かすかに国歌もコラージュされていたのが印象的。客に絡みもするラフなスタイルはGREY WOLVESの系統。恐らくメンバーはハードコア上がりだろうと勝手に想像。徹底掉尾攻撃的に畳み掛け、ぶっきらぼうに終了。自分に中に在る不合理への憤りが補填され、満たされる感覚を満喫できた。

SLOGUN @ 難波 Bears

SLOGUN, SICKNESS, ARAKATSUMA, TIMISOARA, GUILTY CONNECTOR
2006/11/16
難波 Bears

無理を押して、仕事終わりと同時に職場を飛び出し大阪へ。ベアーズに行くのは約十年振りということもあり、おおいに道に迷う。このあたりは再開発でもされたのか、記憶の中の町並みと少し違っていた。ベアーズにようやくたどり着くと、開演から大分遅れたこともあり、すでにTIMISOARA, GUILTY CONNECTORのライブが終わって、次のARAKATSUMAのライブが始まったところであった。

ARAKATSUMA:
NOISEUSEとMONTAGEによるへヴィーエレクトロニクス〜パワエレユニット。重い駆動音の上部で吹き荒れるノイズ、そしてそこに差し込まれるアジテーションと引用音源。欧州のマーシャルものと比べても全く遜色なく、きっちりと構築された印象。当名義での音源リリースを期待したい。

SICKNESS:
今回のツアーは、当名義での活動を止めるらしいSICKNESSの日本で最後のパフォーマンスとなる。三年前と同じように、机の上にはエフェクター類と鉄板などが散乱している。彼はそれらを操作し、断続的なカットアップハーシュを吐き出す。以前は机の上に立って機材を蹴りつけたりしていたのだが、今回は前回ほど激しいアクションはなく、機器を操作する手付きに音楽的な意図が感じられるというか、間やタイミングを考えた即興演奏に変化したような印象を受けた。それでも音の鋭さと過剰さは全く変わっていなかった。

SLOGUN:
前回はサポートメンバーを加えての編成であったが、今回はJohn Balistreri単独の編成。バックの音はあらかじめ音源を準備してのもので、Johnはアジテーションに専念する。なのでうねる低音ノイズ主体のバックトラックは、ややシンプルな印象。酒をあおり、たまに観客を突き飛ばしたりのラフなライブであったが、その出で立ちやアジテーションにはやはりある種のカリスマ性がある。ノイズの奔流の中で、シンボル化された暴力衝動そのものとなったアジテーターに眼前で対峙するということ、それは「お前は平時から覚悟を決めているのか?、お前に殺せるのか?」との問いを投げかけられているかのようでもあった。パワーエレクトロニクスとは、シンボル化された、現実以上にシリアスな事象と向き合う場である。そこでは鏡のように自身の信念や覚悟が映し出され、その再検討が要求されるといってよい。パワーエレクトロニクスは音楽であるが、音楽のみの留まるものではない。

Richard Pinhas Band @ 名古屋 Day Trip

Richard Pinhas Band, FREE LOVE, G-FIGHTER
2006/12/4
名古屋 Day Trip

フロントアクトの演奏を聴きながら飲食していると、外人さんが物販コーナー前をうろついている…それは余りに普通な振る舞いのPinhas一行だった。英語で話しかけるも、今日程自分の英語力のなさが嫌になった日はない。取りあえず意思の疎通は諦め、CDにサインをもらう。もの静かで紳士的。その後、Pinhasは物販横でじっと座って時間をつぶしていた。

Richard Pinhas Band:
映像の投影される中、PinhasはギターとLive Rig Processingなるシステムを操り、そこにPC担当のJerome SchmidtとドラムのAntoine Paganottiが加わる三人編成。Pinhasの演奏によるものと思われる、ギターを元にしたエフェクト音響が空間を埋め尽くす(Schmidtが出している音だったのかもしれないが)。これが少々退屈だったのだが、始まってしばらくしてようやくPaganottiが派手にリズムを叩き出し、シンセのフレーズも反復されて、HELDONらしさが出てくる。アンコールにも応え、HELDONの曲(多分)のフレーズが聴こえた時には驚嘆した。かつての衝撃が感じられたのかと言えば、それ程でもなかったものの、全体としてはなかなか良いライブだったと思う。

2007年02月25日

CHOP SHOP @ 京都 Cafe Indepandants

CHOP SHOP, Daniel Menche, BASTARD NOISE, DOOG
2004/12/17
京都 Cafe Indepandants

少し開演に遅れてアンパンに到着。客の入りはまあまあ。前方では出演者らが次バンドの準備をしようとしているのだが、これがなかなか進まない。というよりか次のCHOP SHOPことScott Konzelmannがまだ来てないらしい…。急遽BASTARD NOISEが準備にかかる、

BASTARD NOISE:
昨年度はEric Wood急病、Bill Nelson単独での来日だったが、今回はEricは勿論、John Wieseも復帰しての来日。Ericはエレクトロニクス、JohnはPowerBookG3、Billは昨年と同じ巨大アナログシンセと自作楽器。大所帯でのノイズ集団即興。静かに始まり、やがて盛り上がりを迎えて、徐々に消えてゆくという展開。

CHOP SHOP:
個人的にメインアクトであるCHOP SHOP。道に迷っていたのかどうかは知らないが、Scottがようやく御到着。風貌は生真面目そうな美術家といった印象。さて、何やるのかと思ったら…やはり自作スピーカーが来た!。さらに格好良いナグラのオープンリールまで持ち出す。セットを詳しく述べると、

              もう一つのテープ(音源2)
                  ↓
ナグラのオープンリール(音源1)→[ミキサー]→[自作スピーカー]
            ↓        
           [ミキサー]→[PA]

こんな感じらしい。自分の英会話と筆談に間違いなければ。本当は筆談というより図を書き合っていたんだけど(笑)。このセットを見る限り、本来はインスタレーションとしてギャラリーで展示するべきものなのだと思う。(だからデザインが美しいナグラのオープンをわざわざ使っているのでは。)それを今回はライブとしてプレゼンするので、音源の片方をPAに送ることにしたのだろう。半インスタレーション、半ライブという興味深いセット。長机の上には奇怪な自作スピーカーとナグラのオープンのみが並んでいる。あとの機材は机の横。本当にギャラリーでの展示みたいだ。この光景を目にしているだけで目眩がする。

そしてライブ開始。まず音源2の方をスタートさせておき、自作スピーカーで鳴らす。小さなモノなので音量は小さい。しばらくしてから自作スピーカーの蓋を取る。それにより音が変化する。その後ナグラのオープンをスタート。PAから大音量であの干涸びたハーシュノイズが流れ出す。一連の開始作業を終えたScottは床に腰を降ろし、客と一緒にノイズに聴き入る。B. Gunterみたいだ。この作為の希薄さが堪らない。もう全てが格好良過ぎる。サウンドも!、自作スピーカーも!、演奏しないところも!。カラカラに干涸びた持続音ノイズはぶつ切りで編集されており、唐突に次の持続音ノイズへ繋がる。この干涸びてジリジリした感覚は、マーシャル系パワエレの粗雑でジリジリした音の感触に通じるものがある。サウンドだけを取り出してみても非常に素晴しい。やがてテープが全て巻き取られ、PAからの音が突然止まる。それにより再び自作スピーカーからの小さなノイズのみが聴こえるようになる。するとScottは再び立ち上がり、蓋を元の通り自作スピーカーに被せる。そしてノイズを徐々にフェードアウトさせて終了。

Daniel Menche:
砂や塩を使っていた頃の盤は何枚か持ってる。しかし今のDaniel Mencheの手法は、また違っていた。コンタクトマイクを付けた細長い鉄板を咽に押し当てて叫び、叩き、所狭しと転げ回る。悪くはないが、ノイズにおけるこういったタイプの表現方法には正直、限界を感じた。

Signal to Noise - Audio Swiss Japan @ 名古屋 KD.JAPON

Christian Weber, Tomas Korber, Jason Kahn , Norbert Moslang, Gunter Muller, 大友良英, Lethe/桑山清晴
2006/3/13
名古屋 KD.JAPON

遠出をする日に限って寒い。雪の降るなか、数年ぶりのKD.JAPON。がらりと店内の配置が変わっていて躊躇する。7名もの演奏者が出演するので、ステージ周辺は各種エレクトロニクスが占領しており、町工場のようにごちゃごちゃ。よくよく考えるとライブに足を運ぶのなんて、自分の関わった物を除くとすっかりご無沙汰。大友氏の演奏を観るのも久し振り。(20歳頃の自分にとってGROUND-ZEROはアイドルだった。ほとんど大友氏の追っかけに近い状態で、関西圏での大友氏関連のライブには必ず行くくらいに。)さて、久し振りと思ったら大友氏の使用楽器はギターだった…いつからタンテ使わなくなったんだろう。それとも今日はたまたまなのか。

一セット目はJason Kahn(electronics)、Norbert Moslang(everyday cracked electronics)、Gunter Muller(i-Pod, electronics)、Letheこと桑山氏(electronics)というエレクトロニクス奏者によるセット。高周波音や雑多な電子ノイズがドローン状に層を成し、グリッチ音によるプチプチとしたリズムが、その音の層をまとめ上げる。ドローンとしてインプロするというのは分かりやすい方法ではあるのだが、この面子は比較的似た音色によってそれを行っていたため、とても一体感があったように思う。明確なリズムを要として使用するのは、やや反則な気もしないではないが、おかげで音楽的な高揚感が味わえた。また電子音ばかりのなか、桑山氏が足元の石を蹴る音が面白いアクセントになっていた。

二セット目はChristian Weber(contrabass)、Tomas Korber(guitar, electronics)、大友氏(guitar)という楽器奏者によるセット。ちなみにTomasはほぼエレクトロニクスのみを使用。もちろん楽器演奏といっても、断片的な自己表出の度合いの薄いリダクショニズム的内容。後半からは大友氏が震えるようなギターアンプのフィードバックに突入。コントラバスの弦による軋みを侵蝕する、どこか永久音楽劇場のようでもあるハードコア・ドローンとなり、なかなかの好内容に満足。

三セット目は全員での大所帯セット。前半は様子を探るかのように点描的な音を出し合う。いまいち噛み合わない。特に電子音に対して、Christianのコントラバスと大友氏のギターの爪弾きが。しかし徐々に音は抽象性を高めてゆき、中盤辺りからドローンや、高周波、クラックド・エレクトロニクスが一体化し、神経質で鋭利な電子音のクラスター状態に突入。大所帯での即興はやっぱりこうなる、予定調和的に。こういう電子ノイズ主体の楽器編成の場合はそれがまた良いのだが。誰がどの音かは判別不能ながら、想像ではパッチシンセのコードを忙しそうに繋ぎ替えるJasonの役割が大きかったように思う。ここでも機械的なグリッチ音による、プチプチとしたリズムがやはり要。自分も年甲斐もなく盛り上がってしまい椅子の上に立って観戦。静寂系のリダクショニズムも良いけど、即物的でありながら冷めた高揚感もあるインプロも良いものだ。

JAZKAMER @ 名古屋 Cafe Parlwr

JAZKAMER, RULLA, Other Artists...
2007/2/24
名古屋 Cafe Parlwr
まずはRULLA/Tommi Keranen、John Hegre、Lasse Marhaugと日本側ミュージシャンのセッションが行われた。中でも最初に行われた、フィンランドハーシュそのものと言える激しさを見せたRULLAのセッションは、共演者NOISE CONCRETEのアクションも含めてなかなか面白かった。その後、他のセッションを挟んでラストにJAZKAMERという順番。

正直に言うと、過去にJAZZKAMMER時代の音源は所有していた。しかしそれはコラージュ的なデジタルノイズといった内容であり、あまり面白味を感じなかったためにユニオンに売ってしまった。以前のライブもそんな訳で、あまり関心が持てずにパスしてしまったので、JAZKAMERを観るのは今回が初めてとなる。エレクトロニカと称された音楽が落ち着き、猫も杓子もラップトップという風潮にもやや変化が見られる近年、電子音楽に深く食い込む音楽家はさらにコンピュータへの依存度を高め、ノイズに食い込む音楽家はアナログでローファイなマテリアルに回帰しているかのようだ。(もちろん高度に音響的な、デジタルでしかやれない音楽の形式というものは確かに存在し、そういったものを追求するのであればコンピュータの使用は必然である。)

JAZKAMER:
そしてJAZKAMERも(と言うかLasse Marhaugは)コンピュータの使用を脱した模様。John Hegreがギターノイズ、Lasse Marhaugがエレクトロニクス(トリガーはマイクを仕込んだ缶の中に金属片を入れたと思われるもの)という機材編成。過剰な暴走/エラーを引き起こしても挙動が停止しないアナログ機材でノイズを演るということには、やはりそれなりの必然性があるといったところか。サウンドチェックからそのままスタートした演奏は、音響的ノイズというイメージからは程遠い、暴れながらのバキバキの機材との格闘、ザラザラした質感の激しい正統派ハーシュノイズ。Johnは乱れながらギターを掻きむしり、Lasseは激しいアクションで機材を操作する。これは否定、アンチとしてのノイズの価値を私に再発見させるに充分なものであり、このような原初的ノイズの衝動を肯定する姿勢には共感を覚えた。生半可に音響的であったり、エレクトロニカ的であったりするようなノイズはもういいだろう。

2007年03月01日

Trad, Gras och Stenar @ 名古屋 TOKUZO

Trad, Gras och Stenar, Acid Mothers Termple & The Melting Paraiso U.F.O.
2007/3/1
名古屋 TOKUZO

得三に到着すると、既にAcid Mothers Termple & The Melting Paraiso U.F.O.のライブは終盤の盛り上がりを迎えていた。客層は、やはり背広姿の古株プログレマニアから若者まで幅広い。AMTの名前は聞くが、観るのは初めて。そのいい感じに緩く、そして熱いクラウトロック的演奏を楽しむ。次のTrad, Gras och Stenarの準備時間に、物販で彼らのCDをまとめて購入。ツアー限定のTrad, Gras och StenarとAMTのスプリットもあった。

Trad, Gras och Stenar:
かなりご年配のメンバー4名。まずは奇怪なSEにエフェクトされた抽象的な音像が絡む、ドロドロした不定形な演奏でスタート。だがその後は数年前の再結成作に近しい、サイケではあるが思いのほか端正でスタンダードな演奏をする。中盤からメンバーはAMTの河端氏をステージに呼び、反復するリズムの上でギターがうねる、サイケデリックな共演を繰り広げる。河端氏が加わることでドロドロ度合いは急激に上昇し、北欧のADと呼ばれただけのことはある往年のTrad, Gras och Stenarの世界が垣間見られた。もうメンバーも高齢であるので再来日は困難かも知れない。日本で観ることが出来たことに感謝。

2007年04月20日

アドベンチャーズ・イン・ミニマル・エレクトロニック・サウンド @ 京都Metro

Peter Christopherson, Esplendor Geometrico, Robert Gorl, Coh
2007/4/14
京都Metro

名古屋の自宅を午後一時過ぎに出て、午後四時頃三条に到着。まずは京都国立近代美術館の展覧会を観て、ギャラリー16に寄ってから、徒歩でメトロへ向かう。少し時間があったので途中のカレー屋で夕食をすませる。そうして到着した数年振りのメトロは何も変わっておらず、懐かしい心地良さを感じた。この日は物販でEGの持っていない作品(EGは廃盤が多いのだが、この日は多くの見かけない作品が売られていたので)、Robert Gorlの新譜などのCDを大量に購入、約二万の散財であった。

Coh:
Raster-NotonやMEGOからもリリースのあるCohことIvan Pavlovの演奏。ノートPCによるエレクトロニカ的な内容。その音楽は生音のサンプルやグリッチ音によって構成された場面転換の多い、バラエティー豊かな展開をみせた。ただ、その場面転換が頻繁過ぎて、いい感じに盛り上がるCarsten Nicolai的なパートがあっても、すぐに切り替わるのがやや残念。そのようなグリッチでミニマルなパートにもっと長く浸り込みたいと思えた。

Peter Christopherson:
ビッグネーム故、恐らくはトリであろうと予測していたのが、二番手で出演ということで意表をつかれた。それにしてもTGのメンバーが、TG新譜の発売に合わせて来日となれば、いつの日かTG本体が観られるのではないかと期待したくもなる。さて、Peter Christophersonはうやうやしく登場し、おもむろに自らの鼻腔にローションを塗りたくる。一体何が始まるのかと思ったら、不気味なマスクを傍らのスチロール箱から取り出し、そのマスクに連結されたチューブを鼻腔に突っ込む。そしてまるでレクター博士のようなレザーマスクを装着し終え、PowerBookや機材を操作する。どうやらこのマスクは楽器であるらしい。その音楽は映画音楽的、アンビエント的なものであり、綺麗な生音サンプルの使用も多く、そこにヴォイスが被せられる。一般的な意味で綺麗で音楽的な内容ではあるが、それをPeter Christophersonがやるからこそ、とても面白く感じる。観客もじっくりと微動だにせず聴き入っていた。比較的短めに数曲を演奏し終了。

Esplendor Geometrico:
そしてArturo LanzとSaverio Evangelistaによるスペイン(Arturo Lanzは現在北京在住だが)の鉄鋼業系インダストリアル・テクノイズユニット、Esplendor Geometricoの出番となる。Saverio Evangelistaはヘッドホンで出音をモニターをしながらノートPCに向かい、冷静かつ几帳面そうに根幹となるサウンドを担当し、Arturo Lanzは使い込まれたキーボードとアジテーションを担当する。Arturo Lanzのキーボードには金属的な工場の騒音のようなノイズがアサインされており、Saverio Evangelistaによるインダストリアルなリズムに合わせて激しいアクションで叩きまくる。そりゃキーボードが傷む訳だ。そしてArturo Lanzはマイクを手にしてステージ前の仕切りパイプに乗って、激しくアジテーションする(スペイン語の巻き舌アジテーションがまた面白い)。EGやVivenzaは音楽の構造自体はEBMやミニマルテクノ的であるが、そこで用いられるサウンドは完全に鉄鋼業系ノイズである。その扇動的でインダストリアルなサウンドは、強い高揚感と初期衝動を解き放つ快感に満ちている。まるで巨大工場の奥深くで機械の騒音を聴いているかのようだ。終始、Arturo Lanzはアグレッシブであり、キース・エマーソンばりにキーボードと格闘したり、仕切りパイプの上に仁王立ちになって叫んだり、そのパイプから滑り落ちたり、さらにそのパイプをガンガン蹴って歪めたり、マイクを持ってフロアに降りアジテーションしたりと忙しい。煽動された客も大盛り上がりで拳を突き上げ叫ぶ。これはノイズマニアもテクノ好きも一緒になって聴くことの出来る希有な音楽だ。バックに映し出されていたモーショングラフィックスやCGも、インダストリアルなサウンドに似合うシンプルで構造主義的なものであった。私も汗だくになって楽しんだ。

Robert Gorl:
セッティング中に半透明のビニールがフロアとステージを仕切るように張られ、フロアからは出演者の姿はうかがえない。このような特殊な状況下で、突然ハードなミニマルテクノが流れ出す。こうなれば観客はもう音に没入して踊るしかない。DAFの片割れでもあるRobert Gorlは、Disko-Bから盛んに作品をリリースしていることからも分かるように、90年代に入って以降、主にテクノ/ハウスの文脈で活動して来たといえる。NDWの時代、DAFとして活動していた頃の作品はニューウェーブ繋がりでノイズ・アヴァンギャルド関連音楽として聴いていたが、90年代以降のソロ活動は殆ど追っていなかった。このような不勉強な自分ではあるが「E2-E4」からBasic Channelに至るドイツのエレクトロニックミュージックについては一応聴いてきており、所謂その手の音楽も嫌いではない(むしろ好きか)。しかしシーン全体としてのテクノ/ハウスには結局深入りせずに来た。テクノ/ハウスに私がついて行けなかった理由は、テクノ/ハウスの持つR&Bのような艶やかなグルーブ感、ソウル感に溢れた側面とクラブカルチャーに馴染めなかったことにある。むしろ機械的でインダストリアルの文脈で読み解くことが出来るようなテクノ/ハウス〜エレクトロニックミュージックこそが本当に聴きたいものだった(なのでアシッドハウスやBasic Channelは聴ける)。その点、Robert GorlのストイックなミニマルテクノはBasic Channelに通じるものがありとても楽しめた。一貫して四つ打ちのリズムが維持される、バキバキのミニマルにフロアも盛り上がる。最後にビニールを破って現れたRobert Gorlのゲイ特有のとても良い笑顔を見た時、とても幸せな気分を感じたのは私だけではあるまい。アンコールにも応えて演奏を終了。ちなみにDJとしてのプレイではなく、演奏にはノートPCを使用していた。

じっくりと聴かせるタイプのPeter Christophersonを前に持って来て、ノイズ・インダストリアルミュージック=エレクトロニックミュージックであることを証明するかのようにEsplendor Geometricoを次に演奏させ、最後にRobert Gorlを持ってくることで、彼らの音楽を典型的なテクノ/ハウスの文脈から、エレクトロニックミュージック/インダストリアルミュージックの文脈へと奪還する。この日の出演者の演奏も全て素晴らしかったが、主催者であるアルテクニコの着眼点とイベント構成もユニークかつ、とても納得出来るものだった。正直クラブカルチャーなんてものは、自分にとってはどうでもいいのだ。終演後Peter Christophersonと記念写真を撮らせてもらい、Arturo Lanzにサインをもらい、Robert Gorlと握手し、私のオタク心も大いに満足した一日だった。

2007年05月20日

Sutcliffe Jugend+Satori @ 高円寺 ShowBoat, 難波 Bears

Sutcliffe Jugend, Satori, Pain Jerk
2007/4/28
高円寺 ShowBoat

Sutcliffe Jugend, Satori, Solmania
2007/4/30
難波 Bears

ついに実現したSutcliffe Jugend+Satori来日ツアーの東京、大阪両公演を観た。ここでは特により強固な緊張感に満ちていた東京でのライブを取り上げたい。ちなみに日本側の共演として、東京ではフロントアクトとしてPain Jerkがライブエレクトロニクスによる極端かつ鋭利なハーシュノイズを聴かせ、大阪ではSatoriの後にSolmaniaが改造ギターと大量のエフェクターによる有機的なノイズを聴かせた。どちらもピュアノイズとしての日本ノイズの完成度を見せつけるものであった。

Satori:
インフォメーションが極めて少なく、不穏なイメージにその存在が覆われたユニットとして知られたSatoriを、まさか日本で観ることができるとは思わなかった。そのライブは映像を中央スクリーンに投影し、スクリーン両サイドで黒づくめの二名のメンバーがノートPCを操作し演奏するというものであった。その映像は過去の不気味な映画群からのファウンドフッテージものであり、奇怪かつ印象的なシーンがしつこくループされるという内容。それはサウンドの視覚的シンボルとして、必然性を持って機能していた。そして演奏の方は、不穏なデスインダストリアル〜ダークアンビエント形式のサウンドであり、ハーシュ質のノイズが持続するなか、インダストリアルな脈動が打ち込まれゆく壮大な展開をみせた。精神の奥底を探求し、畏れという普遍的感情の表出を目指すかのような、派手さとは無縁のストイックなサウンドである。この精神的イメージ追求への指向は、言うまでもなくSutcliffe Jugendと相通じる。観客らも瞑想するように、そのサウンドに聴き入っていた。最後に象徴的なCold Springのレーベルロゴがスクリーンに写し出されて終了。

Sutcliffe Jugend:
Sutcliffe Jugendは英国ノイズ/パワーエレクトロニクスにおいてWhitehouseと並ぶ重鎮であると同時に、Come Org期Whitehouseのようなシリアスな攻撃性を、より純化させて聴かせるユニットである。しかしながら反社会的テーマへの具体的な接近は、2000年代Sutcliffe Jugendにおいては若干希薄化している。その反面、いまのSutcliffe JugendはSJやBodychoke名義での活動の反映として、定型的なパワーエレクトロニクスに留まらない幅広いレンジの音楽要素を、凶暴なサウンドに回収することに成功しており、シリアスな攻撃性はより強固になっている。勿論元WhitehouseでもあるKevin Tomkinsの、独特の声質によるアジテーションは一層激しさを増している。音の凶暴性をより純化するという指向性は、暴力衝動の音楽/ノイズによる表出として支持することが出来る。

不定形な音響に導かれて登場したKevin TomkinsとPaul Taylorは、まずは持続ノイズのなかで断続的なノイズを発する。このとき特に唾棄しながら観客を睨みつけるPaulの姿が印象的であった。機材はKevinがサンプラー&エレクトロニクスとフィードバックを取り込んだマイク&エフェクター類、Paulがサンプラー&エレクトロニクスとギターであった。双方ともに極めてシンプルなセットである。そしてPaulのノイズギターを狼煙としてKevinがヴォイスを発することで、Sutcliffe Jugendの暴虐が開始される。ノイズのループとPaulのギターノイズ&エレクトロニクスに満たされた空間の中で、暴力衝動の顕現と化したKevinは激しくアジテーションを繰り返す。暴力衝動の純度は時間とともに高められ、Paulがギターを放り投げてマイクを手にし、二人掛かりのアジテーションを繰り広げる最終段階に来て臨界に達する。ここで私は暴虐の花が開くような印象を受けた。二人はリミッターが切れたようにステージに留まらずフロアのなかを徘徊し、叫び続け、そしてまた観客も拳を突き上げる。(Sutcliffe JugendはKevinのキャラクターばかりが主にクローズアップされて来たが、Paulのドスの利いたアジテーションも極めて存在感あるもので、この二人あってこそのSutcliffe Jugendであると理解した。)彼らは意味を伴うノイズを一貫して追い求めている。そのノイズ/パワーエレクトロニクスのエッジに立つ姿勢に深い感銘を受けるとともに、自分のノイズに対する価値観について強固な裏付けを得られたライブであった。Sutcliffe Jugendは純粋化された暴虐そのものであるノイズを凶器として、我々のモラルによって固定された精神と世界観を殺し続ける。

2007年06月11日

The Rita, Oscillating Innards, Impregnable, Tralphaz @ 高円寺ShowBoat, 今池Tokuzo

Incapacitants, The Rita, Oscillating Innards, Impregnable, Tralphaz
2007/6/3
高円寺ShowBoat

Black Air, The Rita, Oscillating Innards, Impregnable, Tralphaz
2007/6/6
今池Tokuzo

アメリカ・カナダのハーシュ勢が大挙来日した今回のライブ。ちょうどライブ当日に東京で所用があったので、東京と名古屋の両ライブを観ることが出来た。ここでは東京でのライブと、名古屋でのBlack Airについてレヴューしたい。

Tralphaz:
最初に登場した大人しそうな風貌のDavid LimことTralphazは、マイクを手にして叫び、机上に並べられたエフェクターを激しいアクションで操作するという正統派ハーシュの演奏スタイルであった。途中足を滑らせてモニターに向かって転げながらも奇声を上げるその様相は、その大人しそうな風貌とのギャップにおいて「何てノイズらしいんだろう」と清々しさを感じさせる。最後に机をひっくり返して10分程で終了。

Impregnable:
続いてはJeff WitscherによるImpregnable。彼はとてもユニークな人柄の人物であり、ボロボロのシャツとヒゲと片言の日本語が印象に残っている。その演奏のスタイルは一風変わったものであり、エフェクター等機材の乗ったテーブルをフロアの真ん中に設置し、至近距離で観客に囲まれながら演奏するというものである。東京では結構観客が入っていたのだが、このImpregnableの演奏スタイルに煽られた客が悪ノリ状態で暴れる。そしてJeffは右手に握った発音源を激しく振る。それはもうノイズのライブとは思えないカオス状態。このようなパンク・ハードコアのライブのような光景と、豪快なスクラップハーシュがとてもよく似合っていた。大満足。こちらも10分程で終了。

Oscillating Innards:
やはりこの日一番格好良かったのは、このOscillating Innardsの演奏であったと思う。ステージ上にはエフェクター等機材の乗ったテーブルやドラム缶、金属製プロペラのスクラップ。そこにバフォメットのプリントされたTシャツを着用する長身黒づくめのGordon Wilson Ashworthが静かに立つ(彼は結構なブラックメタルマニアでもあり、Akitsaの話題で盛り上がった)。まずは緊張感ある持続フィードバックノイズに、ドラム缶とスクラップによる金属ノイズが断続的に加えられながら、しばらく静の状態が続く…そして突如、空間が裏返り捩じれるようにしてハーシュノイズへと突入。Gordonは長身の体躯にて激しいアクションを伴いながら、エフェクターを操作し、スクラップを打撃する。基本的にはハーシュノイズでありながら、とにかく静と動のコントラストの取り方が見事であった。

The Rita:
展開もへったくれもない、問答無用のノイズの壁=Militant Wall 。徹底した音圧による暴力とでも言おうか、その演奏は音楽的展開といったものから遠く離れた、ライブ空間における極端な状態のノイズ音塊の設置である。机上のエフェクター等機材を操作するSam McKinlayは、どことなく気難しそうな雰囲気を持った人物であったのだが、そんな彼らしいといえばらしい極端なストイックさ。これはアンチ、拒否としてのノイズ性の開示である。しかし彼はよくある異常さをひけらかすような嫌らしい演技でパフォーマンスとして見せたりはしない。ただ問答無用のノイズの壁、その圧力で観客を捩じ伏せるストロングなスタイルである。敬服した。十数分間に渡り、いい意味で変化のないノイズをまき散らした後、アンコールで再び30秒ほど(笑)演奏して終了。

Incapacitants:
東京のライブの最後を締めくくったのはIncapacitantsであり、貫禄の純粋ハーシュノイズを聴かせた。演奏中にどんどんトランスし異様な表情となる小堺氏と美川氏の姿は、見た目にはキッチュなユニークさを感じさせる。しかしその音はハーシュでありながら、とても音楽的で美しい(良質なフリージャズのようだ)。小堺氏は何度もフロアに降り客を煽り、最後にはやはり机をひっくり返して終了。

この日のライブを思い返すと、Incapacitantsがどこか音楽的/音響的であるのに対し、アメリカ・カナダ勢(特にThe Rita)は、大音圧ノイズによってライブ会場に、即物的なある音の状態を設置しようとしているかのようであった。同じハーシュノイズ同志でありながら、ノイズに対する微妙なアプローチの違いを感じさせられる。そして、これを最も強く感じたのが、後日、名古屋でのBlack Air名義のライブにおいてである。

Black Air:
名古屋でのライブの締め。The RitaとOscillating Innardsの合体ユニットであるBlack Airには、とにかく展開らしい展開がない。最初から最後まで土石流のような直線的な暴虐ハーシュである。SamとGordonはステージではなく客席前方に机を向かい合わせるようにして設置し、対面状態で各自のエフェクター等機材を操作する。このユニットで彼らは全く激しいアクションを見せることなく、ひたすら黙々とノイズを演奏する(Samは時折、スピーカーの方を向いてPAの状態をチェックしたりもする)。個人的に、これは一般的な意味での演奏行為ではないと思えた。ここまでくると、もうノイズの設置と言った方が適当だろう。圧倒された。

2007年07月03日

帝都殲滅 @ 高円寺 20000V

Genocide Organ, Death Pact International, Arakatsuma, Mothra
2007/6/23
高円寺 20000V

Genocide Organ, Operation Cleansweep+Tho-So-Aa, Jack or Jive, Erehwon
2007/6/64
高円寺 20000V

とうとうこの日、Genocide Organのファイナルライブが「帝都殲滅」として開催された。初日が激しい攻撃的なスタイルにて、二日目が不穏かつ重厚なスタイルにてまとめあげられており、構成意図も明確で納得させられた。まずは日本側出演者についてまとめて述べたい。

Mothra:
初日一組目はベース&ヴォイス、エレクトロニクス、ドラム、メタルパーカッションによる工業的インダストリアルバンド、Mothraがフロントアクトを務めた。雷鳴のような打撃音と無骨な駆動音めいた演奏は、錆び付いた機械が発する工業音のようでもあり、祝祭のようでもあった。バンドらしさがどこか希薄なところも良い。

Arakatsuma:
そして初日二組目。Noiseuse+Montage+Government Alphaの三者によるインダストリアルかつハーシュなノイズユニットであるArakatsumaは、三者のスタイルから想像出来るように重い駆動音と高音圧ハーシュを、微かなシンセの旋律と引用音源をともないながら吐き出す。基本的に三者とも机上のエレクトロニクス類を操作するのだが、Government Alphaは途中からマイクを手に、ひたすら刺々しいアジテーションに徹する。一辺倒なハーシュではない、マーシャル系インダストリアルを追求する姿勢が感じられた。この抑圧された空気は見事であった。

Erehwon:
二日一組目は石川雷太と昼間光城による、メタルジャンクノイズ・ユニット、Erehwonがフロントアクトを務めた。ステージ上には大量の鉄板やメタルジャンク類。まるで工事現場のようである。そのサウンドは過剰な金属系ハーシュノイズが高密度で、巨大工場の中枢部における騒音のように性急に放出されるというものであり、容易に非人間的な工業化社会を想起させるものであった。石川雷太は現代美術家としても知られるが、これも美術の仕事における社会的イメージ使用の延長線上にあるものであったと言える。背後には映像も投影されていた。

Jack or Jive:
そして二日二組目。ようやく観ることの叶ったJOJのステージ。彼女らは日本においてダイレクトに欧州インダストリアル〜ネオフォーク勢に連なることのできる希有なユニットである。そのライブは、まずは君が代の引用にて幕を開ける。そのサウンドは作り込まれた打ち込みバックトラックに女性ヴォーカルが加わるというもの。どこの国の言葉でもない、抽象化されたものである。引用音源も多々使用されていた。前方にて幽玄な衣装を身に纏って歌うChako氏の姿が、宗教儀式めいていて印象的だった。そして後方では服部氏が要所要所にてスタンディングでシンバルを打つ。JOJはWhite Rabbit Recordsからリリースもあることから、今回のGenocide Organとの共演が実現されたのだと思われるが、これほど本邦の音楽でGenocide Organに通じるものを持った音楽もあるまい。Genocide OrganとJOJ、音楽形式は全く違えど、現代社会の不合理に対する毅然たる「否」の姿勢を保持するといった点において、両者は共通性を持っていると思えた。

Death Pact International:
初日三組目は、過去にはKapotte Muziek/GoemことFrans De Waard、Grey Wolvesも関わった文化的テロ共同体、Death Pact Internationalである。今回はO.C.(前回は二名のメンバーでの来日であったが、今回は一名のみで来日)がエレクトロニクス類を後方にて担当し、前方でTho-So-AaことLutz Rachがアジテーションを担当するという編成によって構成された。そのサウンドは腐敗したノイズを貫通する、鋭利な駆動音によるパワーエレクトロニクスであった。薄暗いステージ上にて憎悪と暴力衝動を焚き付けるようなノイズがまき散らされる。この現代社会に打撃を与えながら疫病のように感染するタブーなき文化的テロ共同体は、固定的なグループを構成せず、誰もがDPIの旗のもとに参じることが認められる。そして当名義での著作権は解放されており、DPIのマテリアルをウイルスのように増殖させ、DPIとして活動することが推奨されている。かつてのメールアートの戦略を援用しながら、匿名性の中で国際的共闘を促そうとする戦略は興味深い。実に存在感ある運動体である。今後もいたるところでDPIの顕現は姿を現し、記録物を残し、そして再び群衆に紛れ込むだろう。

Operation Cleansweep+Tho-So-Aa:
初日と同編成ながら、二日三組目はOperation Cleansweep+Tho-So-Aa名義でのライブである。昨日と同じくO.Cがエレクトロニクス類を後方にて担当し、前方でLutzがアジテーションを担当する。そのサウンドは作り込まれたバックトラックによる、O.Cのパワーエレクトロニクス的な部分にTo-So-Aaのダークアンビエント的な部分が掛け合わされたものであった。背後では映像のプロジェクションも行われ、水中に沈む女性などの断片的イメージが、重厚なサウンドと重ね合わされる。重々しい空気のなか、へヴィーエレクトロニクスにより、聴衆を圧殺するかのようにジワジワとライブは進行する。ラストではO.Cの前回ライブではオープニングとして使用されたトラックが飛び出して終了。

Genocide Organ:
社会全体との政治的闘争を音楽という領域にて行うということ。それは子供めいたパンクにおける政治的挑発とは全く違う意味を持つ。今回の編成はKlaus Hilger、Michael Rief、Joachim Kohl(本名も聞いたのだが失念)の三名ともがエレクトロニクスを操作するが、KlausとMichaelはアジテーションも担当する。(加えてKlausはベースも使用。また二日目にはKlausとMichaelはメタルジャンク類も使用。)渡航時に不測のトラブルに遭い、一部機材等を日本国内で調達する状態であったと伝え聞くが、ライブ自体はそんなことは微塵も感じさせぬ完成度と存在感であった。背後に投影される映像は、クラシック映画のファウンドフッテージや、国連旗を踏みにじる映像や、ゲリラ戦の戦時下映像、南軍旗を掲げたデモ行進の映像等の各種報道からの引用、そしてグロテスクな拷問(?)映像など、我々のモラルを揺るがせ、撹拌するようなイメージの洪水であった。

初日はGenocide Organの激しい攻撃的側面が強調されたようなライブであり、初期の楽曲も多く演奏されていた。初期EGのような腐敗しながらも脈動するへヴィーエレクトロニクスに、それを高速で貫通するアナログノイズ、そしてアジテーション。終盤ではKlausが書物を読み上げて破り散らすパフォーマンスも見せた。腕を高く掲げながら発される、その強い意志に満ち満ちた叫びは、怠惰の日常に耽溺する我々の意志を揺すり起こす。二日目はより重厚なインダストリアルとしての側面を強調し、徹底して不穏な空気を撒き散らしていた。特に持続ノイズのなかドラム缶、鉄板といったメタルジャンクを摩擦し打撃するパートなどは、まるで我々の脳漿に鼓膜を通して腐敗が染込んでくるような感覚であった。

Genocide Organは自らの政治的信念、行動手段を公に開示しない。しかし彼らが作品において提示するメッセージ/イメージは歴史修正主義を呼び起こすような政治的隠喩を含んだものである。だが、彼らの政治的スタンスはレイシズム、エスノセントリズムから発したものではないはずだ。
かつてのノイズ・インダストリアルはネガティブな「反社会的イメージ=ノイズ」を積極的に使用することで、聴取者の社会的モラル/固定化された価値観を揺るがすことを目論んだといえる(それは露悪趣味者を呼び込む恐れもあるが)。しかし、かつてのノイズ・インダストリアルがいわば効果のレベルで使用していた反社会的イメージは、政治的パワーエレクトロニクス勢において若干の変貌を見せている。
かつてのノイズ・インダストリアルは聴取者の社会的モラル/固定化された価値観を撹拌はするが、その撹拌の後に引き起こされる事態までは明確に意図化/目的化してはいない。それに対してその後の政治的パワーエレクトロニクス勢は、極端な政治的イメージの使用により政治的批判/論争を引き起こしながら、聴取者個人個人の政治的スタンスを相対的に浮かび上がらせようとする。ここで彼らは引き起こされた批判/論争、すなわち撹拌の果てに、聴取者を直接的行動へ駆り立てること、自らの活動がその契機となることを意図しているのだと考えられる。
ただしどのような政治的スタンスを聴取者が持つかについて、Genocide Organは各個人による自由選択の余地を残す。そしてGenocide Organ自身の政治的主張については沈黙を守る。聴取者が結果としてどのような行動に向かおうと、それは個人の意志と信念の問題である。むしろGenocide Organの真意とは聴取者個人の自由意志を明確化させ、その意志に依拠した闘争の場へと向かう契機を、聴取者へと付与することにあるのではないか。
ここから先、どうするかは聴取者の自由意志の領域である。怠惰の日常の反復の中に沈む者にとっては「変わった人達ですね」との表層的感想によって聴取は終了するだろう。しかし、彼らの音楽に意味を見いだすことが出来る聴取者にとっては、ここがスタート地点となる。Genocide Organは自身の政治的スタンスについては沈黙し、彼らなりのやり方で彼らの闘争と目標へと向かう。それは我々にとっても同じである。我々にも我々自身の闘争と目標がある。彼ら(我ら)が闘争の標的とするのは自らの意志を妨げる全てのもの、明日の世界の到来を妨げる全てのものである。

2008年05月10日

Extreme The Dojo Vol.20 Special @ 名古屋 クラブクアトロ

AT THE GATES, DILLINGER ESCAPE PLAN, MAYHEM, PIG DESTROYER, INTO ETERNITY
2008/5/9
名古屋 クラブクアトロ

職場の仕事が長引いて到着が遅れてしまい、二番手のPIG DESTROYERから観る。PIG DESTROYERは元AxCxのScott Hullを含むベースレスのバンド編成にノイズ担当メンバーが加わる変則的グラインドコアで、とても奇妙であった。

MAYHEM:
このバンドがなければブラックメタルがその後の文脈を獲得することもなかった。今回の来日はAttila(vo)、Hellhamer(dr)、Blasphemer(g)、Necrotcher(b)という編成(Blasphemerはすでに脱退を表明している)。このメンバーのうちAttila、Hellhamerは「De Mysteriis Dom Sathanas」の録音に参加している。「De Mysteriis Dom Sathanas」はEuronymousの遺作であり、直後に彼を殺害するVargも演奏に参加したという、MAYHEMにとっても、そしてブラックメタル界全体にとっても象徴的な作品だった。この二人が眼前で演奏しているということ、それはブラックメタルが象徴、言葉のレベルに留まらず、文化的社会空間を具体的行動によって喰い破った、あの時代を幻視させる。Attilaは顔面まで覆った黒尽くめのアラビアの民族衣装のような姿で、シアトリカルなパフォーマンスを交えながら叫ぶ。このパフォーマンスがブラックメタルらしいのかといえば、実はかなり個性的な部類に入るのではないかと思う。それでも「De Mysteriis Dom Sathanas」の「Freezing Moon」が演奏されれば、そこにはブラックメタル以外の何ものでもない世界、圧倒的な象徴性を伴った音楽が出現する。そう、「音楽」なのだ。今の彼らのやっていることは、どこまで行っても「音楽」でしかない。
Euronymousの死により、かつてのような具体的行動(たとえ若者の暴走だったとしても、それはある種の政治性を持つものである)を採用せず、音楽的手段を選択したのだとすれば、それはそれで認められるべき方法論だ。彼らは行動を経てその方法論へと達したのであり、その過程は無視できない。その存在を確認するという義務を果たせたので、とても満足している。

DILLINGER ESCAPE PLAN:
名前は知っていたが、不勉強で作品を聴いたことすらなかった。ただライブ映像は見たことがあり、随分ハイテンションなカオティックハードコアだなという印象があった程度だが、実際観て驚いた。精密機械のような、しかし複雑に骨折したポンコツが、高速動作するような演奏。身体能力の高そうなメンバーらは、メチャクチャに暴れ回りながらも演奏をこなす。ボーカルはスピーカーをよじ上って天井に逆さまにぶら下がり、ギター二人はステージで飛び回るのに飽き足らずフロアにおりて、肘掛けテーブルの上に立ち、移動しながら演奏を続ける。観客もダイブを繰り返す。そのバカバカしいまでの技術力と終始ハイテンションの勢いには笑うしかない。
全然タイプは違うが、まるで山塚吉川時代のボアダムズがグラインドコアをやったかのようなパフォーマンスだと思った。脱力するようなとぼけた部分と高速グラインドの部分が激しく精密に切り替わる。その要素の多さがどこかプログレのようでもあり、じっくり聴ける音楽として充分に楽しめた。

AT THE GATESはただただ懐かしかった。なんとも高内容なイベントに満足したが、翌日体中が痛くなった。こういう時に年齢を感じる。

2008年07月16日

Moritz von Oswald Trio @ 鰻谷 燦粋

Moritz von Oswald Trio, Fumiya Tanaka
2008/7/12
鰻谷 燦粋

初めて訪れる心斎橋は燦粋。ミニマルかつ幅広い選曲の前座DJをひとしきり楽しんだ後、ラウンジでだらだらと雑談に興じる。しばらくすると唐突にMoritz von Oswald Trioのライブが始まった。

Moritz von Oswald Trioの編成は、Moritzがステージ右手でミキサー、シンセ、エフェクター、PowerBookに囲まれており、Max Loderbauerはステージ左手でモジュラーシンセが乗った机に向かう。そして中央のドラムセットにはVladislav Delayが座っている。
以下、オフィシャルに報じられていた今回のメンバー編成。
Moritz von Oswald (Basic Channel) on Electronics & Mix
Vladislav Delay (aka Luomo) on Percussion
Max Loderbauer (Sun Electric, NSI) on Modular Synthesizer

その音楽は、まずMoritzのPowerBookより実にゆっくりと、シンプルに繰り返されるリズムトラックが送出され、そこにMoritzとMax Loderbauerのシンセによる音響が重ねられる。さらにVladislav Delayの叩くメタルパーカッションの軽やかな響きが上モノとして散りばめられる(彼は重いリズムは叩かず、あくまで上モノであることに徹していた)。リズミカルなインプロヴィゼーションによる、Basic Channelの発展形。これらを最終的にMoritzがミキシングし、束ねていたようだ。

ダブ色は思ったほどに強くなく、淡々とした展開で、どことなく現代音楽的ですらある。椅子に座ってじっくり聴きたいタイプの音楽だった。客も客で、少しでも盛り上がれる所をみつけて盛り上がろうとするが、あまり踊れるような音楽でもない。前後のDJがフロア向けのクリックハウスやミニマルテクノだったので、ここまで地味だとコントラストが強烈である。

結論としては勿論楽しめたのだが、この音楽形式に過去のBasic ChannelやRhythm & Sound程のインパクトがあるのかと言えばそれはない。もうMoritzは、踊れるだとか乗れるだとかという理由のみで音楽に取り組んではいないのかもしれない(この日のライブがたまたまそうだっただけかもしれないが)。ミニマルテクノからミニマル・ダブへと、常にこの界隈の音楽に強い影響を与えてきたMoritzのこと、こうやってどんどん変化していく姿勢は肯定したいし、今後も聴き続けてゆきたい。

2008年09月24日

エクスペリメンタル・サウンドプログラム および関連イベント@赤レンガ倉庫

エクスペリメンタル・サウンドプログラム#1
Tony Conrad & Jim O'Rourke, Stephen Prina, Incapacitants
2008/9/14
横浜 赤レンガ倉庫

エクスペリメンタル・サウンドプログラム#2
William Bennett, Marcus Schmickler, Luke Fowler & 角田俊也, 美川俊治
2008/9/15
横浜 赤レンガ倉庫

エクスペリメンタル・サウンドプログラム#3
Merzbow, Robin Fox
2008/9/20
横浜 赤レンガ倉庫

エクスペリメンタル・サウンドプログラム#4
Stephen O'Malley & Oren Ambarchi & Jim O'Rourke, POP(Zbigniew Karkowski & Peter Rehberg)
2008/9/21
横浜 赤レンガ倉庫

横浜トリエンナーレにおけるエクスペリメンタル・サウンドプログラム、およびいくつかの関連イベントを観た。横浜トリエンナーレについては改めて書こうと思うが、まずはエクスペリメンタル・サウンドプログラム、および関連イベントについてレヴューする。
あと、ヘルマン・ニッチの関連イベントは予定されていないそうです。

Incapacitants:
今回のコンサートは座席が用意されているので、座った状態でインキャパを観ることに。なんだか妙な気分である。だが、椅子に腰掛けた観客を前にしても二人のアクションはいつも通り。冒頭からハーシュノイズが吹き荒れ、二人はどんどんトランス状態となり、奇怪な痙攣を伴いながら機材と格闘する。美川は鉄板に肘打ちを食らわせ、小堺は機材を手に恍惚として万歳。よい意味でいつも通りなので、あまり書くこともない(笑)。良質なフリージャズのようなハーシュノイズを30分程演奏し、ラストは小堺が機材もろとも転倒し終了。彼らの行為も含めた音楽は、今やその全てがハーシュノイズの伝統である。

Stephen Prina:
レッドクレイヨラ人脈のスティーヴン・プリナは、スーツ姿でエレアコを手に登場。カヴァー曲を含む良質なフォークソングを聴かせてくれた。程よくポップで、アメリカーナの空気を感じさせる楽曲群である。ギターだけでなく、ピアノを使う楽曲も多かった。やや渋めの声質と、上品で端正な演奏を堪能させてもらった。

Tony Conrad&Jim O'Rourke:
休憩時に知人の映像作家さんと雑談していると、ステージに目をやった彼が「ジムさんがセッティング手伝ってますよ」と言う。ステージに目をやると、トニー・コンラッドとジム・オルークが忙しそうにセッティング中。私も「本当ですね」と返す。「…共演するんじゃないですか」と彼。その予想は当たり、この日の演奏ではオルークがチェロにて参加。これが事件であることは、この辺りの音楽の愛好者にはお分かりいただけるだろう。「Early Minimalism」やGastr Del Sol with Tony Conradの7インチ等での共演の再来である(グラッブス抜きだが)。プリナを呼び戻して、彼がギターを演奏してくれれば殆どGastr Del Solになるな、と変な妄想をしながら開始を待つ。
使用楽器はコンラッドが改造されたヴァイオリン、オルークがチェロ。この二つの音はエフェクターを通して電気変調される。さらに事前に用意されたドローン音源も加えられていたようだ。またコンラッドのヴァイオリンは糸が取り付けられており、演奏の際に弦だけではなく、この糸も弓で弾いて使用する。さらに電気ミシンがコンラッドの傍らに用意され、このミシンの針の部分に取り付けられた糸も弓で弾いていた。あと舞台上の演出としては、二人の足下の床に電球が置かれ、それにより二人の大きな影が後方のスクリーンに投影されるようになっていた。
演奏の方は、紙幣を伸ばしてクリップで金具に留めて弓で弾くというパフォーマンスでスタート。奇妙な音とそのユーモラスな姿に対し笑いが起きる。が、続いてヴァイオリンとチェロのドローンが開始されると、もう観客は笑ってなどいられない。張りつめた緊張感の中で、オルークが中音~低音部のドローンをゆっくりと奏で、コンラッドが高音部のドローンを奏でることで、分厚いドローンによる音塊が出現する。両手一杯の細かいガラス片を力をこめて素手で握りしめるような、あるいは聴覚をヤスリで研ぐような、細かく刺々しく高密度な音の軋み。それがピークに達したあたりで、コンラッドは弦を押さえていた左手を先述の糸に持ち替えて弓で弾く。これが激しい破砕音となってドローンに加えられることで、激しく、それと同時に音響的な美しさも伴ったハーシュ・ドローンが完成する。それはTNB&Organumや、チュードアのレインフォレストを上回る暴力的音楽であった。
また、コンラッドは立ったり座ったりを繰り返しながら全身で演奏するが、オルークは座ったまま真剣な表情でストイックに演奏していた。私はそのオルークの真剣な表情から、コンラッドの音楽に対する真摯な敬意を確かに受け取った。無理して横浜まで観に来て良かった。
以下、終演後のコンラッドの姿。後方に立っているのがオルーク。
tc.jpg

Luke Fowler&角田俊也:
彼らの演奏は音楽というよりも、純粋なサウンドアートのパフォーマンスである。ステージ後方に座るルーク・ファウラーの役割がいまいちよく分からなかったが、角田はステージ前方で、机の上に鉄パイプを置き、それをスライドさせ、最後に地面に落とすという行為を繰り返す。どうやらスライドさせている間、鉄パイプが何らかの接点に接触し通電することで、ノイズ音が発生するという仕組みのようだ。この一連の行為をパイプの本数だけ繰り返し(パイプの長さはだんだん短くなってゆく)、パフォーマンスは終了。角田の作家性から、これが現象の検証というコンセプトを持ったパフォーマンスであることは想像がつくが、一観客の視点からは深い理解には至れなかった。

Marcus Schmickler:
マーカス・シュミックラーはドイツの電子音楽作家であり、初めて観る(と思う)。今回はステージ上にはギターアンプが積み重ねられ、PAを介さず、アンプそのものを鳴らすという趣向である。シュミックラー自身は客席後方のコンソールの傍らに立ち、音源の送出とミキシングのチェックを行っていたようだ。これは所謂現代音楽系の電子音楽コンサートの典型的スタイルである。ステージ上のアンプには照明が当てられている。演奏が開始され、そのアンプから電子音によるノイズが飛び出てくる。音楽自体は暴風雨のような電子ノイズの羅列であったが、ハーシュノイズ的な印象はあまり受けなかった。よくは分からなかったのだが、確かに音の感触が体感的にPAとは異なっていたような気がする。

William Bennett:
私にとって、この日の目当ては、やはりWhitehouseの片割れことウィリアム・ベネットである。ソロなのでWhitehouseとは違う趣向があることを期待していた。機材のセッティングは近年のWhitehouseと同じくノートPCがメインで、それに加えて机のうえに置かれた各種機材も使用していた。だが音の方は厚みのない典型的なデジタルシンセの音色による直線的なノイズで、やや迫力不足の感は否めなかったのであるが。
ベネットはひとしきり機材を操作し、ノイズを持続させた状態でステージ前方に移動し、シートを観ながらテクストを読み上げる。子供や性にまつわる内容のようだが、よく聞き取れないのが悔しい。またシャウトもかなり抑え気味。ベネットはこの調子で機材の操作と、ステージ前方でのシャウトを繰り返す。だんだん暖まってきたのか、図太いドラム音サンプルが機械的に反復されるあたりで、いつものケレン味あるアクション(華麗なターン)も飛び出すようになった。全体的にやや抑えた感じのパフォーマンスであったが、これは意図的なものであったと解釈したいと思う。

William Bennett&美川俊治:
そして、サウンドを持続させたままベネットはステージを降りる。これで終演かと思いきや、しばらくして誰かを引き連れてベネットはステージに戻ってきた。何とそれは美川俊治であった。かなり驚いた。この一連のイベントは、毎回こういうサプライズがあるのだろうか。だとすると全部観たくなる。
まずはベネットが美川を紹介する。その際の、何だか奥ゆかしい美川の反応に好感を持った(こうしてノイズを聴く人間は美川さんにある種の敬意を持ってゆくのだろうと思う)。演奏の方は、ベネットは機材を操作して直線的なノイズを出し続け、アクションやシャウトはしなかった。自らはバックに回って美川にハーシュノイズを担当してもらう意図だったのだろう。美川はあまり激しいノイズではなく、ハウリングによる高周波ノイズによってこれに応える。コンタクトマイク(?)を手にしての恍惚とした表情が印象的だった。全体的には思った程激しくはならず、やや抑えた感じで終了。まあ内容よりもこの二人の共演に立ち会えただけで収穫は大きかったと言える。

Robin Fox:
ロビン・フォックスの音楽は、池田亮司やカールステン・ニコライ系列のノイズ的音色を使用したクリック〜エレクトロニカであった。実に典型的なクリック~エレクトロニカの音楽的スタイルの範疇にあったので、音楽自体は特筆すべきものもないのだが、彼の面白さは、客席に向けられたレーザーが、音に完全に同期していたところにある(そのためのスモークも焚かれていた)。綿密に構成したと思われる視覚効果と音楽の組み合わせは巧みではあったが、慣れてしまえば、やはり典型的な音楽スタイルが物足りなく思えた。

Merzbow:
メルツバウを観るのは結構久しぶりである。アナログ時代から見続けて、デジタル環境に移行したばかりの頃の、ノートPCのみを使用したライブを観たのが最後だったので、もう5年振りくらいになるかと思う。ネットで最近のライブは観ていたのだが、アナログ機材が復活した環境でどのような演奏を聴かせてくれるのか、実際に確認したいと以前から思っていた。
現在の秋田昌美の使用機材は、ノートPCが2台と、昔使っていたスプリングを張った手製の発音器具、およびエフェクター類であった。ノートPCで奇怪な駆動音のようなループや単調なリズムを維持させ、肩からストラップで吊り下げた発音器具を掻き鳴らし、その音をエフェクターでハーシュノイズへと加工するという構成である。ノイズの音色の変化は主に足元のエフェクターのスイッチをオンオフすることで引き起こされるので、全体としては大胆な変化が少ない。そしてこのノイズの変化の少なさからくる均一な音が空間全体を埋め尽くす。それにより聴衆は巨大な壁のような大音量のノイズに酩酊するようにして浸ることができる。個人的にはこの日のような、アナログ機材を取り入れたメルツバウの方が好みだ。
また近年のメルツバウのノイズにおけるモチーフも、かつての変態性欲の断片から、ハードコアなヴィーガン思想そのものへと転じており、その社会にアンチを唱える思想性において、秋田の活動は相変わらずノイズ的であると思えた。現代社会でヴィーガンであることは、実に反社会的であり強固な意志が必要であるのだから。

POP:
最終日。まずは、カルコフスキーとレーバーグによるユニット、POP(Product Of Power)のライブ。二人ともノートPCによる演奏である。カルコフスキーはアカデミックな現代音楽フィールドに出自を持つ電子音楽家ながら、こちら側に踏み込んで来たユニークな人物である。彼はノイズに酔い、身体を揺らしながらノートPCを操作するので、その素行の悪そうな風貌と相まって、観ていてニヤリとさせられる。対するレーバーグはどちらかというと寡黙な風貌で、黙々とノートPCを操作するだけなので好対照である。しかし音楽は広いレンジて刺々しい電子ノイズが激しく運動する、過剰なデジタルハーシュだった。彼らの音楽はパソコンを使用したものであってもノイズ特有の荒々しさ、極端さを過剰に持っている。この周辺の音楽にありがちな小さくまとまったデジタルノイズの羅列に陥ってはいない。とても清々しい、激しく運動する高密度なデジタルハーシュを20分程演奏して、最後は人声サンプルとパルスによる、練られた展開をもって終了。途中、モニタースピーカーから煙が上がるというハプニングもあったが、カルコフスキーはそんなことなど気にしない。

Stephen O'Malley & Oren Ambarchi & Jim O'Rourke:
今回のトリオの編成は、オルークがアナログシンセ(鍵盤付きEMS)や、金属のボウルに乗せられた小さなスピーカユニットと糸の先に結ばれたコンタクトマイクのフィードバックなどを使用し、オマリーとアンバーチはギターを演奏する。(中央にはドラムもセットされていたのだが、結局使われなかった。多分会場にいたBorisのアツオが叩く予定だったのではと思う。)
音楽の内容は、前半は静寂系の即興演奏のなかでオルークの物音やノイズが点描され、後半になってオマリーとアンバーチの二人によるドローンが主体になるという展開だった。結構期待していたのだが、終わってみれば、こう言っては何だが、例えばソニックユースのノイズインプロヴィゼーションのように、ロックバンドが実験音楽的なことをやってみた際に感じる弱さ、物足りなさを感じた。
結局サンの面白さとは、ドゥーム/スラッジの発展として極端な音楽形式の試みを行い、その試みがあくまで広義のロックバンドの文脈において異端として存在することで、明らかなズレを生み出していたところにあったのだと思う。それ故に、異端が広義のロックバンドの文脈から外れて実験音楽の文脈で、実験音楽のマナーに添って演奏を行ったところで、それは極めてありきたりで退屈な結果しか生まない。
それにしてもこれ程のメンバーが集まり、演奏して出て来た音が、今さら静寂系の即興演奏でした、ちょっと実験音楽の方法論をなぞってみましたというだけでは、あまりに不甲斐ないではないか。オルークの出す繊細なノイズ、アナログシンセによるパルスが音として弱いから、オマリーとアンバーチが演奏を合わせたのだとすれば、それは失敗だろう(オルークによる暴力的な弦楽器のドローンと、サンで演奏されるうようなドローンの衝突であれば面白いことになったのではないかと想像するのだが)。
実際のところ、後半でオマリーとアンバーチが徐々に大きな音量(それでも音量は全然物足りない)でドローンを演奏するようになり、それに対応するようにしてオルークが手持ち無沙汰になっていったのが、今回のトリオの噛み合わなさを表していた。(誤解のないように補足すると、私はサンの音楽は素晴らしいと思っている。)

追記:
Stephen O'Malley & Oren Ambarchi & Jim O'Rourkeのこの日の演奏ついては、どうやら致し方ない場所的な制約があり、演奏者の本意ではなかったそうなので納得した。ドラム入りでの演奏も観てみたかった。


加えて、私が観た関連イベントについて。9/14、9/15の分のみ。

Hassan Khan(9/14):
自身の映像作品上映にあわせた、エレクトロニカ~ノイズの演奏。

Philippe Parreno(9/14):
フィリップ・パレノが、もう一人の出品作家(変更があったので、名前を失念)と一緒にテーブルについて、二人でテキストを読み上げるというパフォーマンス。途中からパレノは読み上げを聴いている振りをしながら、腹話術で読み上げを行う。それにあわせてもう一人の出品作家が口パクをする。要するに声が入れ替わったように見える。さらに腹話術は続けられ、最後には二人して退屈そうに読み上げを聴いている振りをする。これで誰がテキストの読み上げを行っているのか分からない状況となる。話し言葉と発声者のインデックスが断ち切られるコンセプチュアルなパフォーマンスと見るべきか、それとも大道芸的なエンターテイメントとしてみるべきか。どちらにしろユーモラスで面白いパフォーマンスだった。

灰野敬二&Cameron Jamie(9/15):
jo.jpg

キャメロン・ジェイミーの映像作品「JO」に、灰野敬二がライブで音をつけるという構成のイベントで、無料ということもあり、とにかく観客が多かった。映像の方は、前半がジャンヌ・ダルクに関連した宗教祭の記録映像、後半が何故かホットドックの早食い大会の記録映像という内容のもの。早食い大会の映像は再生方向が逆になっており、ホットドックを吐き出すようにして映像は進行する。形成された文化的社会制度、そのサンプルとしての宗教祭と早食い大会。この両方に対して、作家は批判的な視点を持って制作していたと思われる。これは前半のジャンヌ・ダルクに扮した少女らと、殉教という歴史と、そこへの政治家の介入に対しての、崇高性とその背後にある欺瞞性への批判。および後半の大衆文化の醜悪さについての批判、皮肉として表れる。
しかし、たとえ意図としてはそうでも、私は前半の映像における甲冑をつけた少女の凛々しさと灰野の音楽は、とてもよく調和していると思えた。これは灰野の音楽のようにある種の神秘性を纏ったモチーフを扱う音楽が、聴き手の中において、容易に崇高性と結びついてしまうことへの危険性を示すものであったのかもしれない。
音楽の方について詳しく述べる。灰野はスクリーンの傍らに立ち、映像に合わせて演奏する形式をとっていた(一般的な意味での「映像に合わせる」とは勿論意味が異なる)。タイトルが映し出される前から、灰野のハイトーンな美しいヴォイスが会場を満たし、繊細な演奏がしばらく続く。やがて本編が始まり、音楽はギターと声を使用したインプロヴィゼーションによる、フリーキーな世界へとなだれ込む。ディストーションのかけられたギターのインプロヴィゼーションによって灰野は空間を蹂躙し、さらに空間に噛み付くかのように絶叫する。そしてサンプラーによるループによって、この暴虐の断片を循環させながら、そこに二重三重の暴虐を加える。最後にはほとんど声のみを使用して終演。音自体を取り出せば彼の音楽はノイズと言われかねないが、彼の音楽は身体性や彼の世界観と深く関わる。すなわちこれはノイズなどではない。

2008年10月01日

ブロッツマン/八木/ニルセン・ラヴ 〜スピリット&パワー 2008 @ 名古屋 TOKUZO

Peter Brötzmann, Paal Nilssen-Love, 八木美知依
2008/9/30
名古屋 TOKUZO

これで観るのは多分三回目となるペーター・ブロッツマンのライブ。ポール・ニルセン=ラヴ、ペーター・ブロッツマン、八木美知依によるトリオでの演奏。

このトリオでの演奏を観るのは初めてなのだが、ブロッツマンはやはり力強く生々しい演奏であった(ただ、若干元気がなかったが…後述する)。そしてポール・ニルセン=ラヴのドラムも、ブロッツマンの演奏によく似合っていた。彼の細かく破裂するように繰り出されるパルスがブロッツマンのサックスを呼び込む。そのままブロッツマンのテンションをどんどん引き上げながら、ブロッツマンの演奏を軸として手数の多いドラムが表現力豊かに叩かれる。ブロッツマンのサックスが直線的であるとすれば、ニルセン=ラヴのドラムは浮沈が激しく、しかも鋭く速い。(ニルセン=ラヴはJAZKAMERのLasse Marhaugとの作品もあるらしく、その演奏はノイズとの親和性もあるように思えた。)そして八木美知依の箏の演奏も素晴らしく、箏という楽器の表現力の豊かさに驚かされた。八木は様々な方法で箏を演奏するため、音の表情が半端なく豊かであった。その音は時としてベースのようであったり、ピアノのようでもあったりもする。ニルセン=ラヴもいろいろと工夫して奇妙な音色をドラムで出すので、ブロッツマンが休んで、ニルセン=ラヴと八木が掛け合いを展開するパートはとても面白かった。

そして演奏は進み、終盤のあたりで、ブロッツマンとニルセン=ラヴが演奏中に何かを耳打ちする。このあたりでどうもブロッツマンの仕草に苛立ちというか、焦燥のような感情が見て取れた。そのままニルセン=ラヴと八木の掛け合いが激しくなったところへ、ブロッツマンがサックスで切り込み、力づくで押し切る。この時のブロッツマンの演奏には先が分からないような勢い、緊張感があった。こういう、生の感情が剥き出しになるような瞬間は嫌いではない。

ここで最初のステージは終わり。凄かったと思っていると、しばらくしてアナウンスがなされた。残念なことにブロッツマンの肺の具合が良くないので、休憩後のステージは中止するとの内容。体調が悪かったと聞いて、あの終盤の演奏の生々しさに合点がいった。楽器の片付けをするブロッツマンは、やはり元気がないように見え、少しいたたまれない気分になった。フリージャズは身を削るような音楽だが、体は大事にしてほしい。

2008年10月07日

坂田明&ちかもらち、ジム・オルークと恐山/内乱の内覧 2008@名古屋 TOKUZO

坂田明, Jim O'Rourke, Darin Gray, Chiris Corsano
2008/10/6
名古屋 TOKUZO

坂田明(As,Cl,Voice)、ジム・オルーク(G)、ダーリン・グレイ(B)、クリス・コルサーノ(Ds)という編成でのライブである。坂田明&ちかもらちと恐山が一緒になったということか。観てみてまず思ったのが、ダーリン・グレイが激しく聴かせるというより小物を使って工夫で聴かせるタイプのドラマーであり、それに対してクリス・コルサーノが、ちゃんとしたベースプレイに徹するタイプのベーシストであったということ。そして坂田明のユーモラスな、そして勢いと伸びのあるプレイにはやはり安定感がある。また坂田はヴォイスや地歌も織り交ぜて、伝統的な日本文化のパロディ的要素も取り入れる(特にグレイと二人で並んで鈴をチリンチリンと鳴らしていた静かなパートなどには、お化け屋敷のようなある種のユーモアが感じられた)。一方のオルークは、反則的な奏法によるノイズギターを演奏した。

開演して、まずは四人での集団即興。ここはまあまあフリージャズであった思うのだが、次の静かな即興演奏になったあたりから、だんだんフリージャズではなくなってゆく。オルークの点描的なギターをエフェクターでループさせ、その上で皆が点描的な演奏をするパートや、坂田の演奏のバックで、残る三人がそれぞれの楽器を弓で弾くパートが面白い。そして坂田が手を止め、残り三人での即興パートになると、演奏はフリーロック的な怒濤の集団即興になる。そのようにして演奏が進み、坂田が叫んだり呻いたり、地歌を歌いだしたりしたあたりから、演奏はますます奇怪な世界へと突入してゆく。オルークのロックギタリストのようなやたらと熱い演奏(ここで坂田が演奏せず、嬉しそうに万歳していたのには笑った)や、オルークとグレイの楽器パートの交換や、ドラムを解体(片付け?)しながら演奏するコルサーノなど。

こういう逸脱した、笑いながら狂ってゆくような世界へ突入しながらも、ユーモアと演奏力ですべてまとめてしまう坂田の存在感(あるいはキャラクター性)がとても大きく感じられたライブだった。オルークの演奏も一人の即興演奏家としてみるのならば、充分楽しませてもらった。

2008年10月13日

jellyfish vol.16@名古屋 TOKUZO

Merzbow, Nice View, 夢中夢
2008/10/12
名古屋 TOKUZO

近年、メルツバウは日本のノイズシーンから距離を置くようになった気がするのだが、本日のライブにおいてもメルツバウ以外のバンドはノイズではない。夢中夢はヴァイオリンとキーボード入りのクラシカルで、どことなくゴシックなイメージの女性ヴォーカルバンド。クラシカルな美しい部分と、バンド的な力強い部分が両立している。Nice Viewはテクニカルなハードコアで、破天荒ながらがっちりと決めてくる。どちらも個性がはっきりしており、初見ながら非常に楽しめた。

Merzbow:
このところ続けてメルツバウを観る機会に恵まれたので、大体現在のメルツバウのスタイルが理解できた。セッティングは前回と同じくノートPCが2台と、スプリングを張った手製の発音器具、およびエフェクター類。今回のライブはPCから送出されるループが明確かつ多様であった。まずは序盤。ミニマルテクノのような単調なループから始まり、発音器具とエフェクターによる空間を埋め尽くすようなハーシュノイズがそのうえで暴れ回る。そして次に複雑な跳ねるようなループに移行するのだが、このあたりの高音ノイズとリズムの掛け合せは、どことなくプリミティヴブラックメタルを思わせる。その後しばらくは、ノートPCからのループが奇怪な音のテクスチュアとして機能するようになり、リズミックな展開は控えめになる。前回との違いとしては秋田が発音器具を鳴らす手を止め、座ってノートPCを操作する場面があり、そこではデジタル環境導入直後に観たメルツバウのような激しい音色の変化が垣間見られた。終盤ではEGのような荒々しく駆動する錆び付いたインダストリアルなループが登場し、そのうえでハーシュノイズが捩じれてゆく。一時間ほど演奏して終了。前回より変化が多く、リズミックな素晴らしいライブであった。

ちなみに会場は満席であったが、観客各人目当てのバンドは異なるものと思われる。このような状況を進んで受け入れ、ノイズという狭義のカテゴリーに属さない観客にむけて、徹底したハーシュノイズを聴かせる。このメルツバウのスタンスには一定の理解を示すことができる。しかし一方で、このスタンスがノイズ全体に対する諦観からくるものではないことを願っている。

2008年12月03日

アパートメントハウス1776 ジョン・ケージ@愛知芸術文化センター

アルディッティ弦楽四重奏団, 白井剛
2008/12/3
愛知芸術文化センター

第一部は、クラーク「弦楽四重奏曲(2002-03)」とファーニホウ「ドゥム・トランシンセット 1-4」と西村朗「弦楽四重奏第4番(ヌルシンハ)」を演奏。どれもこれもハードコアな現代曲ばかりだが、特に西村の作品においてアルディッティ弦楽四重奏団の奏でる弦楽器の音は、まるで奇怪にうねる電子音のようで素晴らしいと思えた。
第二部は、ダンサーの白井剛も加わって,ケージ「44のハーモニー(ダンスヴァージョン)〜アパートメントハウス1776より」の演奏となった。白井は風船や映像のプロジェクションも取り入れながらダンスを行う。ここで演奏とダンスは(カニングハムとケージのように)完全な分裂には至っていない。抽象的な身振りもあるのだが、それだけではない、演劇性のある身振りと展開がその多くを占めていた。また演奏者もダンスの一部として関係するパートが存在した。(それにしても、すぐ側にダンサーがいるのに、よく集中力を保って演奏することが出来るものだと思った。アルディッティ弦楽四重奏団はヘリコプターに乗って演奏するくらいだから、このくらいは全く問題ないのだろう。)
ケージの音楽は、とても繊細でのどかな楽曲であった。記憶の中にあるメロディの断片を思い出しながら、ゆっくりとたどたどしく奏でてゆくような。

終演後、CD購入者は出演者のサインが貰えるということだったが、生憎持ち合わせがなく諦めかける。しかし知人を発見し金を借り、無事シュトックハウゼンの御尊顔に四人のサインを記してもらうことが出来た。

helicopter.png

2008年12月24日

raster-noton japan tour 2008 @ 名古屋 lounge vio

Alva Noto (with Anne-James Chaton), Byetone, SND, Pixel, Nibo, NHK, DJ TOMOHO
2008/12/20
名古屋 lounge vio

NHK:
まずは日本人二名によるNHKの演奏。ノートPCやエレクトロニクス類を二人掛かりで操作する。割と音響的でありながらもハードという、かつてのミルプラトー/フォースインクを思わせるようなサウンドだった。

Pixel:
続いてはデンマークのPixel。これが少々奇妙なパフォーマンスであった。
ステージ前方のテーブルの上には測定器が置かれており、その側には測定器がロール紙にデータを書き出す様子をステージ後方に大きくプロジェクションするための、ビデオカメラも設置されている。そして、そこに登場したPixelは、まず会場の女性客を手招きしマイクの前に立たせる。そしてその女性に日本語の某小説を朗読させ、自分は測定器のつまみをいじる。これらのパフォーマンスのバックではミニマルなトラックが流されており、そのトラックの波形を測定器が拾って書き出す。それが壁に大きく映し出される。簡単に述べるとこんなパフォーマンスだった。
正直、朗読との関係はよく分からない。しかしサウンドを超アナログなロール紙上の曲線に置き換えて、大きくプロジェクションするというアイデアは、超アナログなサウンド同期型のVJパフォーマンスとして解釈できないこともなく、なかなかパンクであった。

Nibo:
日本人一名によるユニットであるNibo。彼はノートPCを操作して、サウンドと映像が同期したパフォーマンスを見せた。そのサウンドは実にRaster-Notonらしい電子音響である。サウンドに同期して変化するProcessingっぽいシンプルな映像(画面中央に並ぶ小さな光点が、上下にブラーを掛けられたように振動するイメージ)も、極めて巧みであった。Niboの演奏は昔、何度か見たことがあるはずだが、その頃よりもリズムが明確になっていたように思う。

Byetone:
そして、メインアクトのひとりByetoneの演奏となる。彼もノートPCを操作して、サウンドと映像が同期したパフォーマンスを見せた。ただしその映像は、NiboやNotoのようにサウンドに同期して微妙に変化するような映像ではなく、速いテンポで切り替わるスタンダードなVJ的映像であった(ちなみに後半以降、この映像のなかでは秒数のカウントが常に画面中央に大きくレイヤーされていたのだが、これがなかなかユーモラスであり面白かった)。サウンドの方は、まさにRaster-Notonらしい電子音響であったが、緻密でありながらもかなりダンサブルな構成となっていた。

SND:
次はまさかRaster-Notonに合流するとは思わなかった、イギリスの二人組であるSND。これが電子音楽におけるミニマリズムを徹底したかのようなパフォーマンスで、驚かされた。彼らの場合、ミニマリズムといってもそれは一定の反復リズムによミニマルではなく、要素を徹底して削ぎ落としてゆく、コンセプチュアルな意味合いでのミニマリズムである。そのサウンドは、楽曲のパーツ、あるいはパズルのピースとしての電子音響の断片が、厳密な間隔をもって配置された無音によって分断されながら、少しずつ進行してゆくというもの。ABCD(無音)BCDE(無音)CDEF(無音)…といった調子である。しかもその分断されたピースを成すサウンドには、緻密な連続的変化が存在しているのだから凄い。全く踊れない、極めて偏執狂的な職人技の世界であった。

Alva Noto:
そして最後はカールステン・ニコライによるAlva Notoの演奏。今回はゲストとしてフランスの音響詩人Anne-James Chatonが加わる編成であった。勿論、カールステン・ニコライはノートPC(とタッチパネル式のデバイス)を操作して、サウンドと映像が同期したパフォーマンスを見せた。ちなみにその映像は、サウンドにあわせて痙攣する、無数の細い水平方向のラインの束というイメージであった。
正直なところカールステン・ニコライのデジタルミニマリズムは洗練の極みに達したところがあったので、ここからさらに大きな変化を見せることはないだろうと思っていた。なので今回、音響詩*1が導入されたのは新鮮な驚きだった。しかもそれが成功しているのだから凄い。ミニマルな電子音響の上部で、感情の起伏を欠いた物質的な音声が淡々と変調される。特に中盤の何十回も同じ発声とノイズが反復される辺りなどは、明らかに初期のサウンドアート的なNotoのサウンドへと回帰しているように思えた。だが一方で複雑に絡み合った電子音響は、極めてダンサブルなものでもあった。
サウンドのコンセプトも、音楽としての洗練も、映像の完成度も全て極めて高いレベルにある。やっぱりカールステン・ニコライは希有な作家であると再認識した。

会場の雰囲気もとても良く、合間に流れていた遅いBPMのクリックハウスも良いセンスで、とにかく楽しかった。また縁の不思議さを感じる個人的な出来事もあり、その意味でも印象深いイヴェントとなった。

*1:即物的な音響として音声をとらえ直した詩。代表的な作家としてはアンリ・ショパンなどが著名。電子的な変調がかけられ、ほとんどノイズ化した作品もみられる。

2009年03月07日

「グルグル祭り2009」@ 名古屋 TOKUZO

Acid Mothers Guru Guru, マニタツ, Acid Mothers Temple SWR
2009/3/7
名古屋 TOKUZO

第一部は吉田達也+津山篤+河端一によるAcid Mothers Temple SWR。勢いがあってカッチリした演奏と思わせておいて、突然ズッコケながら演奏するというコントとジャーマンロックが融合した世界。

第二部はマニ・ノイマイヤー+吉田達也によるマニタツ。これはドラマー二人によるパーカッション合戦。ドラムセットからステージ上に散らばる金物へと戦場を移しながら、鬼のように二人掛かりで叩き続ける。

第三部はマニ・ノイマイヤー+津山篤+河端一によるAcid Mothers Guru Guru。ここで津山篤と河端一はまるでウリ・トリプテとアクス・ゲンリッヒのようにマニを支え、その魅力を引き出し、グルグル以上にグルグルらしい混沌とした演奏を聴かせてくれた。緩急をつけてのぼり詰める津山トリプテとマニによるリズムに絡まりながら、ドロドロと溶けてゆく河端ゲンリッヒ。何しろこの二人の演奏が実に素晴らしかった。往年のジャーマンロックバンドが再結成すると、このような音の魅力が消えてしまってる事が多いが、むしろジャーマンロック好きの日本人の方が、ジャーマンロックの魅力を理解しているということなのだろうと思えた。

全体としてマニの魅力のいろいろな側面を見ることのできる、よいライブであったと思う。また持参したレコードにサインしてもらうという最大の目的も果たせたので満足している。

2009年03月16日

Satyricon @ 名古屋クアトロ

Satyricon
2009/3/16 名古屋クアトロ
現代のヴァイキング達を観にクアトロへ。印象に過ぎないが、何と言うか、ブラックメタル特有の凶暴さとはまた違った要素が増してきたなと思った。もちろんSatyrもFrostもペイントは行っていない。メンバーはサポートのギター、ベース、キーボードを加えた五人編成。それでも中盤から自らギターを持ち出して演奏するSatyrの姿を見ているだけで満足であった。対抗文化としてのブラックメタルは90年代のノルウェーにおいて本当に存在したのだと確認した。2度のアンコールを挟んで、ラストは待ってましたの「Mother North」。ハイテンションなイタリアンプログレバンドがブラックメタルをやったかのようなこの曲、実に楽しく合唱に加われた。

私にとって、文化的空間におけるテロのみならず、現実的空間におけるテロへと至ったブラックメタルの文化的背景はかなり興味深い。ノイズやネオフォークを聴かれる方ならKari Rueslatten、FenrizとSatyrが一緒にやったStormなんかもお勧め。

四月から私も寒い地へと移る。ブラックメタルがよく似合う地だ。

About Live

ブログ「Blog」のカテゴリ「Live」に投稿されたすべてのエントリーのアーカイブのページです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

次のカテゴリはReview: Experimental Musicです。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.34